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「銀盤カレイド8」

『こんな時に伝えることじゃないと思うけど、でも言わなきゃきっとあんたが後悔するだろうから』


 冷たい携帯の温度越しに、静かな姉の声が鼓膜にゆっくりと浸透していく。あぁ、聞きたくないなぁと思いながら、やけに乾いた口の中でヒュゥ、と浅く吐息が漏れる。


『勇利、ヴィっちゃんがね、』


 どこか遠くで、愛しい君の鳴き声が聞こえた気がした。



 フリーの滑走順は前日のショートの順位で決まる。ちなみにショートの滑走順はポイントの低い方からになるので、運の悪いことにファイナルにギリギリで滑り込んだ私が第一滑走者となった。基準になりやすいから第一滑走者は不利だと言われやすく、そしてトップバッターなんて緊張感は余計こと演者への負担となりやすい。メンタルが弱い選手なら尚の事、だろうか。まぁ、比較対象がいないという時点では気が楽な気もするけれど。少なくともヴィクトルの後の滑走でなくてよかったとは思う。あんなリビレジェの後に滑るなんて死んでもごめんだ。まぁほぼ現状ではありえないことだからいいんだけど。
 だからといって楽しんでいこうぜイェア!!と開き直れるほど私は自分に自信はなかったし、強くもなかった。コーチのチェレスティーノが必死にメンタルケアはしてくれていたけれども、日本人舐めないでほしい。謙遜が過ぎた自虐が趣味に近い民族ですぞ!
 まぁそれと、このGPFは私にとって、いや勝生勇利にとって運命の一戦といってもいい。色んな意味で、この大会だけは他のどの大会よりも私の中で重要度を占めている。
 次のシーズンも大概だけれど、私にしてみればこの試合以上に意味をもつものは今後ないといってもいいだろう。おかげでジャンプミスが目立って最下位だったがな!!さすがに全ミスとまではいかなったし点数差だってほぼほぼないも同然ぐらいのどっこいどっこいだから巻き返しは可能な範囲内だけど、最下位な辺りに私を感じるわぁ。どか食いをして調整失敗とかまではしてないけれど、これは最早メンタルの問題である。
 勝生勇利とある意味でヴィクトル・ニキフォロフの運命のGPFだよ?ここが人生の分岐点といいますか私の目的を果たすためには外せない要素である。緊張するなって方が無理な話だ。
 異世界転生繰り返して諸々血生臭いことまでやってきた人間が言うことではないかもしれないが、まぁ、こういう晴れ舞台はそういった事柄とはまた別次元の話だ。そういう意味では他の選手に比べて豆腐メンタルと言われても仕方ない部分はあるだろうなぁ。
  国際大会での成績?うんまぁ、日本人の中ではよくても世界的にみたら目立つことは無いよね!
 まぁそんなことはさておき初のGPFで諸々個人的事情が山積みになってる中でよく滑れたものだと自画自賛したい出来である。チェレスティーノも「フリーで挽回できる範囲だ。気にするな」って背中をバシバシ叩いて鼓舞してくれたぐらいだ。このままうまくできればあるいは、という淡い期待は、しかしこれこそ予定調和と呼ぶべきなのか。
 歴史はなぞるものなのか、それとも抗い続けるものなのか、答えは出ないけれど少なくとも運命は従うことを望んでいるのかもしれない。


「はっ、・・・ぁっ・・・ぅぐっ」


 人気のない廊下の一角で、壁に爪をたてて大きく口をあけて酸素を求める。でもいくら吸っても吸っても足りなくて、きりきりと引き絞られる心臓の嫌な音が耳の奥で木霊する。あぁ、やっぱりか。ずるずると壁伝いに床に座り込みながら、苦しみからか痛みからか悲しみからか、ぐちゃぐちゃに混ざり合って混沌した様子を表すように、私の頭の中も蕩けたように思考が纏まらなくなっていく。支配するのは激しく、本来の可動域を越えて脈打つ心臓と、酸素不足にあえぐ脳味噌。痺れる指先に、耳の奥で木霊する誰かの哀切の悲鳴。何一つ自分の思うようにならない体に苛立ちさえ覚えて、喘ぐ口元でぐっと奥歯を噛みしめた。立てた爪がギリリと壁を引っ掻く。
 ぐしゃぐしゃに握りしめた日本のナショナルジャージの胸元の下。皮と筋肉と血管、たったそれだけに阻まれた下にある心臓が、これほどまでに厭わしく思うなんて!!
 悲しみが悲鳴をあげる。執着が怒号をあげる。ガンガンと打ち鳴らされる鈍い音が頭に響き、どっくんどっくんと暴れる心臓が私を追い立てる。
 ここで意識を失い倒れれば全てが水の泡だ。それなのに容赦なくそれらは私から自由を奪おうとし、私の身体を支配しようとその手を絡めてくる。やめてくれ!と振り払いたいのに、一切の抵抗を封じるように痛みと息苦しさが私を覆い尽くす。
 背中を丸め、脂汗を浮かせてまともな呼吸もできないまま、どうして、とぽたりと目尻から汗が滴り落ちた。
 自身の身体で影になった床の上にぽたぽたと落ちた水滴が滲んだ視界に映って、力なく拳を打ち付けた。勇利、勇利!いや、運命か、銀盤の女神なのか。誰でもいい。どれでもいい。滑らなきゃいけない。それは義務だ。責任だ。他者を蹴落として掴んだ場所だ。滑りきる責任があるし、返さなきゃいけない恩がある。わかってる、私が望んだのかと言われれば、そんなことはないと言うだろう。別に立ちたくて立ったわけじゃない。やりたくてやっているわけじゃない。流されるままの人生だ。勇利のための人生だ。そのための手段でしかない。約束で、希望で、希われたからに過ぎない。だけど、でもね。


 ―――決して、疎ましく思ってるわけでもないんだよ。


 勇利の神様だって、冷たい銀盤の上にいるのでしょう?ねぇだから、お願いだよ。早くこの体を返してよ。
 願うのに、望むのに。それでもそれはダメなのだというように、あの時と同じ鼓動の痛みが全てを奪っていく。あぁ、ねぇ、おねがい。やめて。だって、切欠が、あの子だなんて。ブラウンの毛色。円らな瞳が私を見上げて、小柄な体で目一杯飛びついてきた。可愛い可愛い愛しいあの子。知ってるよ。どれだけ悲しかったか。わかっているよ。どれだけ辛かったか。傍にいられなかった罪悪感。看取ってあげられなかった後悔。もう、傍にはいない孤独感。もっと何かしてあげられたんじゃないか。こんな大会投げ出して、帰って傍にいることだってできた。寂しくなかった?苦しくなかった?辛くなかった?あぁ、大好きなあなた。もういない彼の、大切な。
 でもそれは、もう「勇利」だけのものじゃない。
 そうだ、と目を見開いた。四つん這いになった床の上で、奥歯をギリギリと噛みしめて、自らの身体に爪を立てる。
 私は勇利だ。勇利は私だ。だけど、私の心は私のものだ。私だってあの子が大好きだった。今でも好きだ、愛してる。私の大切な、唯一の共有者。
 勇利。君がその悲しみで心を砕くのなら、それならば―――


「おい!どうした!?」


 唐突に、肩を掴まれてぐいっと引っ張られる。反動で捻った視界に、さらりと滑る、金色。あれ、天使?咄嗟にそう思った私は実は思ったよりも余裕があったのではないかと後で振り返った。今はそれよりも、フードを被った下の、まだあどけなさの残る険しい顔に、呼吸も忘れて魅入ることしかできない。険しく寄った眉間の皺。緑色の瞳は苛立っているようでその実心配そうに揺らいでいるのがわかる。白い面は透き通るようで、なるほど妖精とは言い得て妙だと思った。いやでも、まさか、どうしてここで。


「ユーリ、プリセツキー・・・?」


 乾いた口から掠れた声で名前を呟けば一瞬ピクリと眉を動かして、ちっと容姿に似合わない激しさで柄も悪く妖精が舌を打つ。ロシアンヤンキー、と脳内でテロップが流れると、彼は肩を掴んだ手をそのままに声を荒げた。


「こんなところでなにやってんだよ。具合悪ぃならとっとと医務室に行きやがれ!」


 乱暴な口調で、だけど私の顔色をみてか彼はもう一度舌打ちを零すとジャンパーのポケットに入れていた携帯を取り出した。あぁ人を呼ぶのかなぁ、と思った整えられた指先がスマフォの画面に触れた瞬間、さっきまで動かすのも苦痛でしかなかった腕が反射的にその手を握りしめた。


「やめて!」
「っあぁ?!」


 張り上げた声は思ったよりも大きく出た。あぁ、なんだ。私、声出せてる。
 突然動きを妨げられて、ぴしっと彼の米神に青筋が走った気がする。ドスの利いた低い声でなんで止める、とばかりに睨みつけられたが、臆する前に私は自分の体が、呪いのように締め付けられていた心臓が、目の前の存在に気を取られているかのように収まっていることに気が付いて、はっと息を零した。回らなかった空気が、今、全身に行き渡る。――――なんてことだ!


「・・・っありがとう!」
「は?おい、なんだてめっ!?」


 変態だとか不審者だとかキチガイだとか、そう思われても構わない!
 まだ発達途上の未成熟な細く小さな体に飛びつくように抱きしめて、その温かさを受け入れると深く息を吸う。動く。心臓はまだ五月蠅いし頭はガンガンするし手足はぎこちないし顔色は多分死人みたいに最悪だろうけど、だけど今、この体は、私の意識の統率下にある。それなら、私がやることは一つだけだ。
 最後に一度、縋るようにきつく抱きしめてから勢いよく体を離す。突然のことに呆気に取られたように険の取れた顔はあどけなく、ポカンと口を開けた顔は子供らしい。愛らしい顔に微笑んで、スパシーバ、と今度は彼の母国語で感謝を告げた。


「突然ごめん。あとできちんと謝罪するよ。それと、心配してくれてありがとう」
「なん、」
「――君のおかげで、私は滑れる」


 「私」が、滑れる時間をくれてありがとう。まだ乾いていない汗が顎先から落ちて、よろりと立ち上がる。まだふらつく足元で咄嗟に壁に手をつくと、彼ははっと瞬きをして正気に返ったように廊下に座り込んだまま、おい、と震える声で話しかけてきた。


「だ、大丈夫なのかよ?」


 大丈夫かそうじゃないかと問われたら大丈夫ではないけれど、それを言ったらこの少年をただ心配させるだけだろうし万が一止められたら困るので、そっと口元を持ち上げて微笑むだけに留めた。それに何を感じたのか、ひゅっと息を止めた彼に目を細めてその横を通り過ぎる。足元はおぼつかない。心臓は暴れてる。頭がガンガン痛むし、全身の倦怠感なんて今から滑るのにまるで滑り終えた後みたいだ。
 あぁ、でも、いいね、初めてだ。これだけ絶不調で多分滑れても大した結果も出せそうにないけど、それでもこの時間は勝生勇利のGPFじゃなくて、私の、私だけの4分30秒になる。―――それを申し訳ないと思うけど、だけどごめんね。今日この時の、このスケートだけは、私に頂戴。君が悲しみに暮れるのなら、喪失に嘆いて滑れないのなら、どうかその時間を、私の私情に使わせて。


「勇利!どこに行っていたんだ?もうすぐ6分間練習が始まってしまうぞ」
「ごめんなさいチェレスティーノ。少しトイレにいってて」


 いなくなった私を探していたのだろう、額に汗を掻いたチェレスティーノコーチが、大仰に声をあげて少しだけ咎めるように目を細めた。
 それに眉を下げて殊勝に告げれば、彼は私の顔色を見咎めたように眉を動かしてそっと浅黒い手を伸ばして頬に触れた。


「勇利?本当に大丈夫か?顔色がひどく悪い・・・それに汗もこんなに。一体どうしたんだ?」


 もしも体調が優れないようならば、と言いかけた彼の手を取り、ぐっと強く握りしめる。一旦言葉を止めて、チェレスティーノは私をまじまじと見下ろした。


「勇利・・・?」
「大丈夫です。緊張、してるだけだから」


 心臓がまた騒ぎ始める。迫る時間。リンクの冷たい温度が頬を撫でる。少しだけ顔を俯かせて、きっと彼を心配させてしまうなと思いながら、するりと手を放した。
 ジャージのジッパーを降ろして、外したエッジケースと共にチェレスティーノに押し付けてリンクサイドに寄る。他の選手はすでに近くでスタンバイしていてその様子を眺めて、ふと一番目立つ存在に目を止めた。
 こちらを見もしない、紫色の衣裳を纏った銀色の皇帝。周りなんて気にしない。多分興味もさして持っていない。孤高の王様。氷の上の神様。――勝生勇利の、最愛。
 とくり、と心臓が跳ねて、ふっと笑みが零れる。だけど、私のこの世界の最愛は、違うヴィクトルに捧げてる。うん。ならまぁ、関係ないか。――今、この瞬間だけは。
 アナウンスが流れる。飛びだして入り乱れれば、それぞれの動きが見える。氷の感触を確かめて、ジャンプを確認して、動きを確認して。イメージする。自分がうまく出来たときのこと。文句のつけようもない滑りができたときのこと。わっと歓声があがる。誰かがジャンプでも飛んだかな。ちらっと視線をやれば銀色の彼だった。ああなるほど。見惚れるほど綺麗なスケーティングだ。それを涼しい顔してこなすのだから、恐れ入る。
 見入ったようにとくとくと一定の音を刻む心臓に単純だなぁと思いながら、こっちもジャンプの体勢に入る。跳んで、あ、回転足りない。着地は、まぁまぁ。
 うん。大丈夫。跳べてる。滑れてる。でもまだ体が動きづらい。今は静かでも、多分この心臓はもう一度暴れるだろう。けれど、譲らない。どれだけみっともない姿を晒しても、惨めな形で終わっても。


 この時間だけは、譲らない。
 
 練習時間が終わって、他の選手たちがリンクサイドにはけていく。残るのは第一滑走者の私だけ。SPもFSも一番なんてほんとついてない。まぁ今回のは実力だから仕方ないけど。籤運だけはなぁ。勇利の籤運ほんとないわー。
 フェンスによって、そこで待っているコーチに視線を向ける。息が荒くなる。あぁ、頭が痛い。指先が痺れていく。心臓、煩いなぁ。


「勇利、大丈夫だ。お前のスケートをしてくればいい。自信を持って滑るんだ」
「・・・チェレスティーノ」


 励ますように肩に手を置いて、真っ直ぐに視線を合わせるコーチにひたと目を合わせ細い声で名前を呼ぶ。うん?と優しい声で相槌を打たれて、ふわっと手を伸ばした。


「――ごめんなさい。「私」が滑ることを、どうか許して」
「ゆうり・・・?」


 首筋に縋りついて、その肩口に顔を埋める。戸惑う様子に(そりゃそうだ。私がこんな態度を取ったことは今まで一度もないし、ハグを自らすることもほぼない)すり、と頬を寄せて、泣きそうな声で許しを請う。譲れないから、これだけはどうしても伝えたいから、「勇利」でないことを、今この時だけは見逃して。それは勇利に向けているのかそれとも世界に向けているのか運命に向けているのか、自分でも判別がつかないままただ目の前のコーチに押し付けている。
 本当は、歴史に沿うべきなのだろう。言われるがままきっとこの心臓の暴れるがまま従えば寸分違わない確定した未来が待っているはずだ。だけど、私はそれを足蹴にする未来を選ぶことに決めた。あの子のために、私がしたいことがあるから。
 今まで勇利として滑ってきた。私じゃなくて、勇利としてスケートを周囲に魅せてきた。物語を、解釈を、感情を。そこには、多分私の感情なんて入ってなかったと思う。
 演じる登場人物として為りきっていたと思うし、そうあれるようにしてきたつもりだ。できていたかは知らないけど。自分をさらけ出すのは怖かったし好きじゃないし恥ずかしいし、あとよくわからないし。芸術って難しいんだもの。
 それに、決めていた。私の第一目標はヴィクトルの生存で、第二目標は勝生勇利よ愛を知れ、だ。周囲の愛を自覚して後悔して欲しかったから、周囲にむけて滑ってきた。自分のためのスケートではなかった、と思う。だから、それも含めて許して、だ。
 皆のスケートを、今日この時だけは、私だけの、私的な目的に使ってしまうことへの。しかもこんな大舞台でやらかすのだ。まともなスケーティングもできない可能性があるのに、それをやろうというのだからとんだ大馬鹿者だ。
 勿論、そんなことチェレスティーノには伝わらないだろう。わかるはずもない。それでもいいと思っている。意味不明な謝罪に、時間切れでリンクに戻ることを考えているとぎゅっと、背中に腕が回された。息を呑む。


「――あぁ、許す。行って来い、勇利」
「・・・っはい!」


 許された。意味もわからず。理由も知らず。メンタルが不安な選手の戯言だと解釈されていても。それでも許された。許してくれた。ああほら、勇利。君のコーチは、なんて優しい愛に溢れた、素晴らしいコーチだろう!
 これ以上ない笑顔を見せて、リンクの中央に滑り出す。ポジションを決めて、音を持つ。心は悲鳴を上げている。やめてよ悲しいよ。辛いよ苦しいよ。心臓が痛い。体は重くて、顔色は悪いまま。だけど、知らない。知ったことじゃない。私はここで、愛を叫ぶよ。


『ユウリ・カツキ。ジャパン。曲は――』


 ヴィっちゃん。大好きで大切な、私のたった1人の秘密の共有者。
 君がいなくなってしまったこと、もういないこと、傍にいてくれないこと、いてあげられなかったこと、全部が悲しくて、苦しくて、辛くて、後悔ばかりが胸に迫るけど。出会わなければと、思わないこともないけれど。
 音が聞こえる。滑り出す。両手を広げて、指先まで神経を通わせて。氷が跳ねる。エッジが氷を削る音。好きだな、この音。うん。好きだ。
 だけどね、どうしてかな。今ここで伝えるなら、声に出していいのなら、きっと私は、こう言うよ。


 愛してる。だからどうか、安らかに。


 ありったけの愛と感謝をただ君に届くように滑るから。ただそれだけを籠めて滑るから。悲しみも後悔も喪失も、今この時だけは必要ない。君に届けるのは、この溢れんばかりの感謝と愛。両手いっぱいのそれを花束に、君に贈るよ。結ぶリボンは、ちょっとだけ寂しさを纏わせるけど、それだけは許してね?
 あぁ、可愛い君。大好きなあなた。秘密を言い合える子がいないのは寂しいな。だけど一緒にいれて楽しかったよ。嬉しかったよ。癒されたし、優しくあれた。
 あ、ジャンプミスった。うん、でも流れは止まってない。ステップ、ここは得意。君と遊んでるみたいだね。楽しいな、ヴィっちゃん。心臓、煩い。体、重いな。腕、上がらない。次、うん、決まった。頭いったい。ガンガンする。倒れないかな。転倒だけはやったら動けなくなりそう。それは断固回避。うん。いける。決まった!はは、やればできるじゃん!コンビネーション、あー回転不足?くっそ。ははきっつい。後半に持ってくるの辛いわ―。しかも体調悪いし。心臓の動き方半端ない。破裂しそう。頭ガンガン叩くのやめて。勇利、うるさい。泣くだけなら帰ってでもできるでしょ。目の前真っ白になるじゃないか。でも音楽だけは聞こえてる。まぁ聞こえてなくても滑れるけどね!フライングシットスピンからコンビネーション。くるくる回る。そういえばヴィっちゃんも自分の尻尾追いかけてクルクル回ってたなぁ。可愛かった。あれ動画に残ってるな。後で見返そう。ふふ。あぁ、本当に、


 大好きだ。


 ピタっと止まって、全ての音が消える。自分の呼吸音と暴れる心臓の音。なんてことをと叫ぶ誰かと、ありがとうと囁く声と、わん、という鳴き声。全部消えて、冷たい銀盤に1人。あぁ、何も聞こえないなぁ。
 何か周囲が騒いでいる気もするけど、まぁいいや。レベランスを決めて、リンクに投げ込まれる花やぬいぐるみを拾う。機械的な動きだ。だって疲れた。すっごくすっごく疲れた。死にそう。てか死ぬ。だって終わった瞬間から心臓の爆走加減半端ない。今息できてる?わかんない。できてないかも。茫洋してリンクサイドに戻れば、待ち構えていた人影に力いっぱい抱きしめられる。待ってエッジカバーつけさせて。いやその前にこれ誰。あ、チェレスティーノだ。ソーリー。うん?ごめん、何言ってるか聞こえない。今心臓の音しか聞こえない。痛い。苦しい。ヤバい。どこかに連れて行かれる。どこかっていうか、あ、キスクラ?得点?そっか。でも今何も見えないわ。滲んでる。視力とかいう前に今多分酸素不足でホワイトアウトに近い気がする。やっべぇわこれ。何度も言う。やっべぇわ。
 得点?あ、出たの?だからごめんて今何も聞こえないんだって。すっごい抱きしめられてるね。苦しいよ。これ心臓のせい?頭のせい?コーチのせい?どれ?わかんない。
 インタビュー?あそこ行くの?そっか、うん。ごめん。


「無理」


 運命を捻じ曲げた代償が大舞台での昏倒とか、大恥にも程があるわ。


 


 


 

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