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「銀盤カレイド6」

 連れてこられたのは、ぶ厚い氷が敷き詰められた来たことのない、けれど見た覚えのある矛盾したものを抱えたスケートリンクだった。感慨深いようなさりとてなんの思い入れもないような。こういう時、感情の置き場に困るなと人知れず溜息を吐いた。
 歴史的価値のない張りぼてのお城の膝元で、あまり繁盛しているようには見えない古びたスケートリンク。その外観を見たときからおや?と思い、中に入って受付からスケートシューズを借りたところでおやおや?と首を傾げ、そのブレードのついたスケートシューズを椅子に座らされ、足元に跪いて履かせてくれるミナコ先生の旋毛を見下ろしておやおやおや?と口元を引き攣らせて、歩きにくいだろうから、と転ぶことを憂慮され抱き抱えられてリンクに向かったところで、あっちゃー、とぺちりと額を叩いた。
 そうか。そうだよね。この九州の片田舎にある長谷津に小さい子供連れで遊べるような施設など片手の指でも余るぐらいしかない。遠出するでもなく近場で済ませようと思ったら、まぁこうなることは必然だ。
 ミナコ先生に抱き抱えられ、ほぅら勇利スケートリンクよ~なんて言われて白銀の、子供にしてみれば酷く大きく見える氷のステージを見下ろして、私の目が一瞬死んだ魚のごとく濁った。アカン、これはアカン。どくどくと一定のリズムを刻んでいたはずの心臓が俄かにざわつき始めたのを感じて、咄嗟に上から押さえつけてきゅっと唇を真一文字に引き結ぶ。氷から立ち上る冷気がひやりと頬をなでて、急激な温度変化に耐えられないかのように鼻の奥がツンとする。体中に力が入っているのか、固まって反応しない私にミナコ先生がどしたの、と顔を覗き込んできた。


「勇利?どうしたの?」


 あまりに険しい顔をしていたからか、ミナコ先生が目を見開き、ついで怪訝そうに眉を潜めて頬をぷに、と突かれる。


「怖い?大丈夫よ、ちょっと最初のうちは転ぶだろうけど、慣れれば楽しいし。ほら、テレビでも見たことあるでしょ。あんな風にくるくるーって滑れたら気持ちいいと思わない?」


 思えば、彼女はスケオタだ。鑑賞用としてのフィギュアスケートを愛していて、同じ音楽に乗せて表現するものとして美しく銀盤で舞う選手を尊敬していた。
 そんな彼女が地元の、しかも身近にあるスケートリンクに私を連れてこないはずがなかったし、そもそも勇利がスケートを始めた切欠も彼女だった。奇しくも同じ状況になっているんだな、と思いながら私は怯えるように彼女の首に齧りついた。本能が告げている。あそこに立ってしまえば、私の人生設計がとことん狂ってしまう、と。
 それはダメだ。スケートという繋がりは、どうしたってヴィクトル・ニキフォロフに繋がってしまう。それは細い糸かもしれない。容易く千切れてしまう実はなんてことのない繋がりかもしれない。けれど、もしそうではなかったら?様々に折り重なり、紡がれ、撚り合わせて太い糸になってしまったら?―――二の舞だけは、避けねばならない。
 だからわかって勇利。騒ぐ心臓が、強張る体が、悲鳴をあげても。だからこそわかって、と懇願する。納得して。諦めて。君は、それさえも受け入れて、私をここに送り込んだのでしょう?と。微かに乱れる呼吸にミナコ先生が背中をぽんぽんと叩く。
 少し悩んで、帰る?と問われてほっと息を吐いた。嫌がる子供に無理を強要するほど彼女は強引ではなかったし、あまりに堅い私に一抹の不安が擡げたのかもしれない。
 折角連れてきてもらったのに申し訳ないと思う。純粋に、好きなものを教えてくれた彼女に罪悪感が芽生えるが、それでもこれだけは、と肩から力を抜いた瞬間甲高い子供の声がスケートリンクに木霊した。


「お姉さん、その子どうしたとー?」
「あーなんか慣れないところにきて緊張してるみたいでね」
「そうと?大丈夫だよ、スケートってとっても楽しかよ!」


 無邪気なソプラノ。どくん、と再び脈打った心臓に視線を向ければ、くりくりと大きな目をした今の自分よりもいくらか年上だとみられる可愛らしい少女が好奇心を一杯に湛えて私を見上げていた。
 リンクの天井に吊るされた照明の光を反射してキラキラと輝く瞳は子供らしく澄んでいて、栗色の髪を赤いリボンでポニーテールにしている。動作に揺られて揺れる姿が本当に尻尾みたいで、あ、と唇を半開きにした。


「ほら、勇利。この子もこう言ってるし、ちょっとだけ滑ってみたら?」


 私が興味を示したと思ったのか、ミナコ先生がそういって私をリンクサイドに下す。不安定なブレードで床に足をつけたとき、脈打つ心臓が速さを増した。リンクへの入口の前に、女の子がにこにこと笑って立っている。


「勇利くんっちいうと?ね、一緒に滑ろうっちゃ!」


 差し出された手袋をした手。その瞳はただひたすらに楽しい遊びへの誘いに煌めいて、純粋に好きなもので埋め尽くされていた。一緒に滑れたら楽しい。遊び相手が欲しい。好きなものを好きになってもらいたい。純粋で、穢れなくて、真っ直ぐな思いに、吸い寄せられるように手を伸ばす。駄目だと私が叫ぶ。手を取ってはいけない。決めたじゃないか。諦めるんだ。戻れ、取り返しがつかなくなる。お願い、やめて勇利!
 なのに、体が言うことを利かない。伸ばした腕が少女の手を取る。重なって、引っ張られると小さな体は容易く一歩を踏み出し、真白い氷の上にかつん、とブレードの先が音をたてて着氷して―――つるん、と見事に滑った。


「あっちゃー。やっぱ転んだかー」
「だいじょうぶ?勇利くん!」


 ごちん、と結構痛々しい音をたてて額を強かに氷に打ち付ける。受け身を取る暇もなかったのは子供故の鈍さかそれともやめろと叫ぶことに必死すぎたのか勝生勇利に引きずられていたからか。今生一度も、前世前々世、そのまた前世と、まぁ過去を振り返ってみてもスケートなんてした回数は片手の指も余るほどの回数だ。未経験にも等しいので、氷の上でしかもこんな細い刃物みたいな靴でバランスを取れって言う方が土台無理な話。
 当然といえば当然の結果に慌てる女の子はいいとして爆笑するミナコ先生はいかがなものか。顔面からいったわね!と笑われて、だいじょうぶ?立てる?とおろおろとしゃがみこんで頭を撫でる女の子の優しさが痛い。だがそれ以上に、―――冷たい氷の温度が、胸を突き刺す。あぁ、あぁ。駄目だ。だから駄目だといったのだ。ここに立てば狂ってしまう。私が立てた人生設計が。勝生勇利の願いのために企てていたことが。音をたてて崩れて行ってしまう。肩が震える。立ち上がる気力もない。氷の上にへばりついて、額を押し付ける。冷たい、冷たい氷の上。だけど何よりも愛を伝えあった、口下手な「僕」の雄弁なキャンバス。
 ―――いとおしい、と。彼が叫んだ瞬間、何かが弾け飛んだ気がした。


「ちょっと、勇利。そろそろ起きなさい?」


 さすがにあまりにも長いこと俯せで転んだままの私を見かねて、ミナコ先生が後ろから脇に手を差し込んだ。そのまま引き上げようとする先生に、やめてくれ!と叫びそうになった。ぐずるように身を捩ったが、皆困るでしょう、と窘めるように言われてぐいっと力任せに上半身を引っ張られる。大人と子供では当然のことながら抵抗などないも同然で、氷の上に座り込んだまま、上半身だけ持ちあがった状態でミナコ先生が後ろから顔を覗き込んでぎょっと目を見開いた。


「勇利?なに?そんなに痛かったの?ちょ、ほら。どこ?見せてみなさい」


 慌てたようにミナコ先生が前髪を掻き上げて額を露わにする。目の前のミナコ先生が酷くぼやけて見えて、ぼたぼたと頬を伝い落ちるものに違うのだと言いたくなった。
 いや、痛いことには痛かったのだが、それじゃない。そうじゃない。痛いのは、そこじゃない。女の子が戸惑っている。痛い?痛い?と言いながら背中を撫でてくれているのがわかるがそれに応える余裕はなかった。あぁ、申し訳ない。そう思うのに、取り繕えない自分がいる。当たり前だ。これは、この涙は、―――勝生勇利の、涙だ。


「――っぅぅ」


 ぼたぼたと元栓が緩んだのかそれとも壊れたのか、止まることを忘れたかのように次から次へと浮かんでは、表面張力の限界を超えて落ちていく雫が氷の上に丸く形を残していく。
 その様子に、ようやくミナコ先生が違和感を覚えた。額を撫でて私を抱きしめ、大丈夫よ、と言っていた動きを止めてそっと体を離す。声もあげず。痛がりもせず。ただ、涙だけを流す。ひどく傷ついたように、感動したように、感極まったように。
 涙だけが頬を伝い落ちて、その泣き方の異常性を、彼女は眉間に皺を寄せることで表した。


「勇利・・・?」


 あぁ、ミナコ先生。ごめんなさい。これは私の涙ではないのです。ましてや4歳の勝生勇利の涙でもないのです。これは、これは、―――狂った男の、妄執の涙なのです。
 かは、と息を零す。痛いほどに打ち付けはじめた心臓を守るように服の上からぐしゃりと押さえつけて、目に焼き付けるように白く冷たい銀盤を睨みつける。
 叫んでいる。呼んでいる。僕の居場所だと、ここで生きていたいんだと、妄執の残影が未練たらしく喚いている。違うでしょう。譲ったでしょう。私に、押し付けたじゃないか。助けてって、言ったじゃないか。何を捨てても、誰を犠牲にしてもと、そう願ったじゃないか!!なのに、それなのに!!!


「ふ、ぅぅ・・・あぁ・・・!」


 痛い、痛い。心臓が痛い。勝生勇利が喚いている。それでも愛してると叫んでいる。あぁでも諦めなくてはと嘆いて、それでも捨てられないと絶望している。


 どっくん、どっくん、どっくん。


 心臓が喚き立てる。暴れて、動いて、脈打って、痛いほどに、苦しいほどに――この冷たい氷の上を諦めるのならば、死んでしまえと言っているように。
 苦しい、苦しい、痛いよ、あぁもう本当に、本当に、勝生勇利という男は!!


「ばか、だなぁ・・・!」


 鈍感で負けず嫌いでプライドが高くて頑固で弱虫な、傍迷惑な男この上ない!
 かふ、と一度不恰好な呼吸を零して、私の身体は後ろに倒れていく。
 心臓と脳みそのオーバーワークだ。あぁ、またしても家族とミナコ先生に迷惑をかけてしまう。それと、偶然居合わせた女の子にもトラウマを与えてしまうかもしれない。
 本当にごめん、と言うしかないのに、それでも逃げるには一旦全てを手放さなければいけないというのだから、私その内持病持ちのレッテル貼られそう、と一抹の懸念を覚える。
 あぁでも、しょうがないよね。泣き濡れた頬を撫でる冷たい感触に目を閉じて、全てを投げ捨てることを決めた。あぁ・・・私の意思は、一体どこまで許されるのかなぁ。


 


 


 そっと抱き寄せられた冷たい抱擁が誰のものなのか、知る必要はないと思った。





 

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「銀盤カレイド5」

 勝生勇利という人間は、思った以上に執着が過ぎる人間だったらしい。いや、執念とも言うべきか・・・それともそうせよという抑止力なのか。壁半面が鏡となったレッスンルームでバーに捕まり屈伸運動・・・所謂プリエ、と呼ばれる動作を繰り返しながら溜息を零す。
 鏡に映るまだまだ小さい自分の手足はぷくぷくと肉付きがよくて、真っ直ぐに伸ばしても優雅だとか典雅だとか綺麗だとか艶めかしいだとかそんな表現が似合うはずもない。
 いやまぁこの年でその表現ができるのもどうかと思うが、まず見た目からしてアウトである。子供らしいぷくぷくのフォルムに同じく子供らしい丸顔。一般よりもやや大きめの目は多分母譲りなのだろう。ていうか私は母似だと思う。体型とか顔立ちとか、ご近所さんに言われるのは「お母さんにそっくりやねぇ」であった。今生の性別が男なのでそれはそれでどうなのかなと思うが、中身は女でもあるのでまぁいいかと流している。別に女顔というわけでもなく、ただパーツが父より母寄りというだけの話だ。
 その全身が映る大きな鏡を見ながらさらに視線をずらせば腕を組みながら真っ直ぐにこちらを見るすらっとしたスレンダー美女がいる。前髪をくるっと上に纏めて白い染み一つないおでこを晒して真剣な目でこちらの動作を観察している目がつい、と細められた。あ。やばい。


「勇利、集中。プリエが乱れてるわよ」
「ごめんなさい」


 言われて、改めて鏡の中の自分と向き合って体の動きを意識する。基礎的な動きを疎かにしては何にもならないことはわかっている。正直演目だとか踊るよりもこうした基礎練習をもくもくと反復している方が向いてるんだよな。
 鏡の中の黒髪に紅茶色の瞳をした少年を真顔で見つめて、しかしまぁ、なんでこうなる、と反復練習の合間に一瞬だけ目を遠くに向けた。
 まぁ全部勝生勇利のせいなんですけどね!バーを掴んでアラベスク。指先から足の爪先まで全てに意識を持って美しく。神経から細胞の一つまで意識しろとはミナコ先生の言である。難しいよミナコ先生。細胞とか意識できないよミナコ先生。
 あの日、あの時、あの瞬間。ひどい呼吸困難というべきか心臓発作とでもいうべきか・・・ともかく家族と初対面の人の前で「やっちまったな!」とばかりにぶっ倒れたあの事件は衝撃的だった。検査の結果、至って健康体と太鼓判を押されたこともある意味で拍車をかけたに違いない。あんな死にそうな・・・いやいっそ死んだと思うぐらいの苦痛と息苦しさだったのに、原因不明で処置無しの結果だ。両親も現場に居合わせたミナコ先生も「もっとちゃんと調べろ」と激昂するぐらいにはあの日の出来事は彼らの中でトラウマになっていることだろう。本当にすまんかったというしかない。いや私悪くないと思うけども。一応大きい病院にもいってみたけど結果は変わらず、私自身あれ以来発作のようなものを起こすこともなかったので、偶発的な何かで処理せざるをえなかった。原因不明だからしょうがないね。いつか成長したら問題が浮き彫りになるかあるいは医学の進歩で発見も可能かもしれないが当面はどうしようもないだろう。
 というか、恐らくこの体に健康障害はないと思われる。あれはそんな自分の体に直接起こる内部的な原因ではなくて、ある意味で外部からの干渉だと、誰に言えるわけでもないが私はそう考えていた。
 薄暗い病室。白いベッドの上。朦朧とした私の意識下で、私の意思とは裏腹に紡がれた言葉。あれを執着と言わず、なんという。確かに私は起きていたはずなのに。確かにそこに私の意識はあったはずなのに。あの後また寝てしまったらしいが、起きた後に母からそれを聞かされた私の身にもなってほしい。なんだそれ、である。そういえば言った気がする、と思いつつもやっぱりそんなこと言う気はなかったのに何故、と問わずにはいられなかった。いや実際問いかけたわけじゃないけど頭を抱えることぐらいは許してほしい。
 ミナコ先生から「あんな状態で第一声がバレエしたいとか、正気を疑ったわ」と言われた時には空笑いを返すしかないだろう。私もです、と言えればよかったけどお口チャック。まぁ、ある意味で正気じゃなかったんだろうなぁ。


 あの瞬間、きっとそれを望んだのは「勝生勇利」だったのだろうから。
 
 お前、ヴィクトル生かしたいと違うのか、と面と向かって言えるときがあれば言いたいぐらいに、なにしてんの、と言わずにはいられない。君がそう願ったから、望むから、こっちは君を犠牲にして、ある意味で日本フィギュアスケート界をも犠牲にして、「来るかもしれない未来」を変えようとしたのに、それだけはできないとばかりに口を出してくるとは。まぁ日本フィギュアとは言いすぎたかもしれないが、記憶を浚うに男子フィギュアの特別強化選手は彼1人だったので、まぁ、そこそこ大きい損失なのかなとは思う。最初からそんなくそ重たいもの背負いたくはなかったし、いないならいないでどうとでもなると思っているのでぶっちゃけ勇利の人生ほど重きを置いてはいないけど。人が1人いなくても世界はどうとでも回るから、そこは重要視しなくていいよねうん。
 さておき、人が色々考えてスケートという選択肢を潰していく覚悟を初っ端からへし折りやがって。ちっと打つ舌打ちは幼い外見に反して大人的だ。見られたら2度見される程度にはあまりよろしくない顔だったかもしれない。見られてないからセーフだよね!
 というかこの体は最早私のものだし、憑依だとか勝生勇利が生きている上で乗っ取ったとかそういう次元の話でもない。私という魂を突っ込んで生まれてしまったので、勝生勇利は存在しえないはずなのに、なんなのあの男は。人の意識下で意思に沿わない言動させるとかどれだけ執着してるの。それはスケートなのかヴィクトルなのかはわからないが、いやこれって結構ニコイチ的な感じだから、結局一つへの執着が過ぎるんだな。
 それともこれがこの世界の抑止力なのか・・・勝生勇利はスケートをしなければならないとかいう運命なのかな。それは逆らえなかったりするんだろうか。中身私なのに?溜息が止まらない。疲れた?とミナコ先生に聞かれて、少し考えてから首を横に振る。思考には疲れたが、肉体的にはまだイケル。大丈夫、と答えて再び練習に戻る。


「勇利は練習が好きね、ホント」


 普通こんな地味なこと好む人間は少ないわよ、と基礎練習ばかりを繰り返す私にミナコ先生が呆れたような感心するような声音で言うので、そうかなぁ、と首を傾げた。


「だって、基礎はだいじでしょう?」
「大事だけど、それを実践できる人間は少ないのよ」


 あんたのそれは才能ね、と笑われて、才能ねぇ、とぼやく。中身が成人越えた年代の人間なので、必要性がわかってるだけなんだけどな、とそう思う。
 あと。基本的に天才ではないので、馬鹿みたいに根気よく続けなければ身につかないことも知っているのだ。勝生勇利は才能があっても中村透子に才能があるかはわからない。だから馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返すしか方法がない。ただ繰り返すことに意味がないこともわかっている。ミナコ先生の言うとおり、頭のてっぺんから爪先、細胞の一つ一つまで意識して行わなくてはダメなことも。できるかどうかは別だけども。


「あぁそうだ、勇利」
「なに?」


 ターンの練習。軸をぶらさず真っ直ぐにしなやかに。これだけでも三半規管が物凄く鍛えられたので、前世に比べて成長した部分だなと思う。柔軟性には自信はあったが、今はそれが更に強化されたんじゃないだろうか。


「あんた最近レッスンばかりでしょ?偶には遊びに連れて行ってあげる」
「へ?」


 思わずターンと止めてぴたりと視点をミナコ先生に合わせると彼女はふふ、と笑った。
 亜麻色の髪を揺らしてグロスの引かれた艶やかな唇をぷに、と人差し指で押し潰す。肉感的な所作に大人の女性をみてポカンとする私に、彼女は鼻歌混じりに告げた。


「寛子からもあんたがバレエばかりで心配だって言われたしねー。好きなことを止めはしないけど、他にも目を向けなくちゃ」


 ・・・バレエのレッスンは、やる気がなかったからこそやるからには真面目に取り組まなくてはと思っていただけで好きかと問われると首を傾げるレベルなのだが。
 どちらかというとミナコ先生の所作だとか演目を鑑賞してる方が楽しいレベルだ。あとは、そうだなぁ。練習中は没頭できるから現実逃避に丁度いいというのもあるんだけど。けれども、それが子供らしくないといえばそうだろう。元々大人しく、聞き分けのいい良い子である。中身が中身なので年相応を演じるのも大変なのだ。幸いにもうちの親はおおらかな性格で、子供にちょっと盲目的なところもある。真利姉ちゃんも同様に、それが自分の弟だと認識しているせいか至って普通に受け入れてくれている。ミナコ先生も、多少不振がってもそれで何がどう、ということもないので受けいれてくれる程度には度量がある。恵まれた中で、偶に求められる子供らしさは全力で答えなければならないだろう。
 だから私は、にっこりと笑ってわぁい、と声を弾ませるのだ。


「ミナコ先生、だいすき!」
「はいはい。私も大好きよー」


 言いながら飛びついた子供をぶうん、と振り回して言う台詞だろうかそれは。まぁ楽しいですけど!!
 よもやセカンドインパクトがその後再び訪れるとは、想像だにしていなかったけれども。


 

「バレ誕」

「ハッピーバレンタイーン!」

 そんな掛け声と共にマスターコース寮の一階ホールに集まった今をときめくアイドルたちに、やっぱり今をときめく女性アイドルと作曲家から可愛らしく個包装されたチョコレート菓子が手渡される。ちなみに中身は彼女たち二人がわざわざ手作りしたブラウニーとマフィンである。
 それを歓声を交えながら受け取る男共の嬉しそうな顔といったら。頬を染めて嬉しそうにしているけれど、どれも本命とは言い難いのが切ないね。まぁ恋愛禁止の事務所で義理以外のものを渡すのは大層難しそうだが。
 口々に美味しそう、ありがとう、可愛い、カロリーが・・・と一部そこは考えてくれるなというようなことを口走る美意識高い系アイドルがいたがさておき、私はその流れに便乗するようにはい、とまず近くにいた猫系アジアンアイドルに既製品の袋を手渡した。

「アリガトウゴザイマス!透子、これはなんですか?」

 嬉しそうに渋谷さんと七海さんの手作りチョコを抱えて、さらに私からのものを抱え込んだセシルくんが小首を傾げて袋の中を覗く。
 集まる視線に、おや?とばかりに神宮寺君が眉を動かした。

「レディ、それ・・・既製品かい?」
「そうだよ?」
「え!?透子手作りじゃないの!?」

 なんで?!とばかりに一十木君に目を丸くして問われ、逆になぜ手作りであることが前提にあるのだろう、と首を傾げる。あぁ、渋谷さんたちが手作りだからか。まぁ私がそれなりに作ったものを贈ることもままあったので、刷り込み染みた現象が起こったのかもしれない。いや私だって既製品買うことぐらいするけど?

「珍しい、ですね?」
「そうかな?買うことぐらいするときもあるよ?」

 いいながら、一ノ瀬君の手のひらにはい、と乗せるとなんとも言えない顔をされた。
 普段カロリーがどうの言ってる割に結構食べるよね、一ノ瀬君も。

「透子ちゃんのお菓子、楽しみだったんですけど・・・」
「ふむ。中村はなにを買ったんだ?」

 そういってわかりやすく眉を下げた四ノ宮君と、受け取ったものを興味深そうに見た聖川君に、あぁそれね、と口を開く。

「柿ピー」
「なんでだよ?!」

 すかさず入るツッコミに、チョコレートですらないのかよ!と来栖君が吠えた。え、だって。

「皆仕事とかファンからとか色々甘いもの貰うだろうから、しょっぱいものがいいかなって」

 最近柿ピーにも色んな種類があるらしく、色々買ってみたので適当に分配してみた。誰がどの味にあたるのかは神のみぞ知るというものである。
 心なし胸を張って気遣いだと言えば、全員からすごく微妙な顔された。なんだろう、すごくコレジャナイ感が出てるような。え?よくない?柿ピー。甘いもの食べたあとしょっぱいもの食べたくならない?個人的に奇をてらった中々のチョイスだったんだけど。そういえば月宮さんと日向さんからも「コレジャナイ」という顔をされたような?嬉しいけど!ありがたいけど!!確かに甘いものばっかりだからしょっぱいものが食べたくもなるんだけど!!でも違うのよ!!と吠えた月宮さんはそれでも柿ピーは手放さなかったので、食べたいは食べたかったんだろう。
 なんだろう、みんなそんなにチョコレートが食べたかったんだろうか。

「というか透子の作ったお菓子が食べたかったんだと思うわよ?」
「透子ちゃんの作ったもの、美味しいから」
「買ったものの方が美味しいと思うけどねぇ」

 ていうかそこの美少女2人の手作り貰ってこの上私からもねだるとかなんだこのイケメン共は。柿ピーうまいやろ!

「・・・まぁ、確かに甘いものばかりでは飽きるのでこれはこれでいいんですけど」
「オレとしては甘いものはそんなに得意じゃないから、ありがたいけどねぇ」
「神宮寺君はそうだと思って激辛系にしといたよ」
「えっ本当かい?」

 ネタ的な激辛柿ピーだったけど、神宮寺君がすごく嬉しそうに目を輝かせたので、チョイスは正しかったと見た。来栖君と聖川君たちが顔色を若干悪くさせたので、どれだけ辛いのかと想像したのかもしれない。大丈夫だよ、無理やり食べさせられることはないと思うから。

「あれ?でもそこにある箱は?」

 それは既製品じゃないよね?と目ざとく見つけた一十木君に、あぁこれは・・と答えようとして、階段上からおーはやっぷー!と声が響いた。

「あ、嶺ちゃん!」
「皆なぁにやってんのー?」
「なんかいい匂いがすんな」

 階段上から勢揃い。それぞれ迫力のあるイケメンがてんでバラバラの雰囲気を纏って、優雅?に降りてくる。鼻をひくつかせた黒崎さんが、目ざとく七海さんたちの手にある袋を見つけてガン見した。食べ物への彼の執着は本当にすごいと思う。とりあえず凝視されている七海さんがおろおろしてるからあんまり見んといてあげて。

「今日のことを考えたらバレンタインのチョコに決まってると思うけど」
「ふん。俗物的だが、この国にしては悪くはない行事だな」

 あなたにとってはそうでしょうね、と一体何人が胸中で呟いたか。神宮寺君と対極の位置にいる超甘党のカミュさんの、もらえることを微塵にも疑っていないニヒルな笑みが半笑を誘う。だって結局のところ甘いものが食べたいだけなんだよこの人。なんのギャップなのこれ。
 まぁでもいいタイミングだ。なんでこうもこの人たち丁度良く集まってくれるんだろうね。仕事は?と言いたい気もしたが都合がいいのでお口にチャック。
 渋谷さん達も丁度いいとばかりに先輩方に手作りのものを渡して、テンション高くお礼を言われたり、辛口コメント貰ったり、言葉と態度がかみ合ってないツンデレ対応されたりしている。私も便乗して渡しておいた。寿さんから「そうじゃない、そうじゃないよ透子ちゃん!バレンタインはもっと甘々ハッピーな行事でしょ!?」と言われた。義理にそんなもの求めないでほしい。まぁそれはさておき。

「カミュさん、どうぞ」
「ちゃんと準備してきたようだな」

 先輩三人に柿ピーを渡した後で、先ほど一十木君に私的された白い箱をカミュさんに手渡す。その様子に、ぎょっと目を見開いたのは誰だったか。え!?と声をあげられて、私はようやく軽くなった手荷物にほっと息をついた。

「え?え!?なになにそれなんなのミューちゃん!」
「透子、カミュに何を渡したのですか?!」

 食いつく寿さんと、そういってぐいぐい寄ってきたセシル君に、私はんー?と生返事を返し、カミュさんはどうでもいいものを見る目で二人を睥睨した。鬱陶しいと言わんばかりの視線である。

「・・・箱からして、既製品じゃないね。手作り?」
「なんでお前だけそんなでかい箱なんだよ。つか中身なんだ」

 じっとカミュさんの手の中にある飾りもそっけもない白い箱をみて美風さんがそう呟き、不満そうに黒崎さんがオッドアイを眇める。彼は単純に量的な問題で不満がありそうだった。
 詰め寄る寿さんや黒崎さんの視線に、鬱陶しそうに眉間に皺を寄せたカミュさんが貴様らに関係ないだろう、と吐き捨てながら、それでも渋々・・・多分大分向けられる視線が鬱陶しかったのだろう。本当に渋々、白い箱の蓋をあけた。
 中にはつやつやとチョコレートコーティングされたワンホールケーキが鎮座しており、一応保冷剤も入れているのである程度は持つはずだが、できれば早めに食べて頂きたい、という旨だけ伝えると、わかった、と存外に素直な返事が返ってきた。珍しいとカミュさんを見上げれば、目がケーキに釘づけだった。あ、はい。嬉しい上に早く食べたいんですね。

「うわぁ!おいしそう!!」
「やっべ、店のみてぇ。これマジで中村が作ったのかよ?」

 箱の中を覗き込んで、来栖くんたちが絶賛する。褒められて悪い気はしないので、頑張ったんだよーとにこりと笑えば、しかしやや低い声で一ノ瀬君が問いかけてきた。

「・・・何故、カミュさんだけ手作りを?」
「え?頼まれたから」
「はい?」

 さらっと答えると、一ノ瀬君の語尾が上がる。一応カミュさん仕様に既成のものよりは甘くしたつもりだが、彼の甘党加減は並じゃないので満足して頂けるかは疑問である。でもチョコレートは苦味も大事だから、バランス比が難しいんだよね。まぁ文句は受け付けない方向で。

「頼まれたんですか?」
「そうそう。一週間前ぐらいかな?ラインでいくつかケーキの写真送られてね。作れって言われたから」

 相も変わらず上から目線で「これこれを作ってこい」だよ。何様だよカミュ様か。まぁ断る理由もなかったし、バレンタインも近かったので了承して写真の中からチョイスしたチョコケーキを作ってきた次第である。あの人の味覚肥えてるから生半可なもの出すと滅多打ちされるんだよね。言われないように頑張ったら他の人の作る気力が湧かなかった。まぁ柿ピー見つけたからこれでいっか!と思ったのもあるんだけど。

「つまりバロンのせいでオレ達の分まで作れなかったと」
「んー全部じゃないけど一部はそうかな?あ、でも神宮寺君にはこれあるよ」
「なんだい?」

 結論を出されると、一斉にカミュさんに視線が向かう。それを受けて、彼は鼻をふんと鳴らすと何が悪いとばかりにつんと顎を逸らした。まぁ彼は欲しいものを明言しただけなので、悪くないっちゃ悪くないんだが。ケーキはやらんぞこれは私のだ、とそういってそそくさと蓋をしめたカミュさんにミューちゃんずるい!と寿さんの非難が飛ぶ。
 そんなことはさておき、私は続いて荷物を減らすべく、ラッピングも味もそっけもないタッパーをごそっと取り出してぐいっと神宮寺君に押し付けた。

「中身は寿司ケーキね。神宮寺君甘いものダメだからそっち系にしてみたよ」
「え?」
「誕生日でしょ?おめでとう」

 はーこれで荷物片付いたわ。そういって、軽くなった荷物に私はきょとんとしている彼を放置して、じゃぁ私仕事あるから、とわいのわいの賑やかな面子に軽く声をかけて退場する。え、ちょっと待って!と声をかけられたが、時間的に厳しくなってきていたので、ごめん急ぐ!とだけ告げてそそくさを駆け出した。いや、実はさっきラインみたら早乙女社長から「至急来るべし」って一報だけ入ってたんだよね・・・今度はなにさせられるんだろう。
 びくびくしながら甘い匂いのする寮を、私は駆け抜けるように飛び出したのだった。



「銀盤カレイド4」

「ねぇ勇利。あんたバレエしてみない?」

 亜麻色の髪のお姉さんが楽しげに眼を細めて言った瞬間、「勝生勇利」の心臓がどくん、と激しく鼓動を打った。
 見開いた瞳に映る幼子に視線を合わせ、しゃがみこんだ体のしやなかな体躯。すっと伸びた背筋と子供を見る愛おしげな眼差しはいつか勇利に向けられていたそれで、胸に届いたのは懐かしさだったのか自覚だったのかわからない。けれどある意味、両親や家族以上に、「スケート選手勝生勇利」の傍近くにいただろう「彼」の「先生」に、私は母の足元の影から覗き見ながら、何とも言えない気持ちを抱いたことは確かだ。
 どの道を選んでも親睦を深めることは可能だろう。私は・・・「僕」は彼女の後輩の子供なのだし、わざわざ後輩の家にこうして海外から戻ってきたその足で、恐らく実家に寄りもせずに顔を見せる程度には親しいのだから。彼女の傍らにあるスーツケースの存在に、よっぽど仲の良い先輩後輩だったのだろうなぁ、と思いながら子供らしく母の影に隠れて考えるように視線を斜め下に伏せる。それが恥ずかしさからの所作だと思ってくれればいい。「なぁに、人見知りー?」と笑う声に母が「ミナコ先輩が綺麗すぎたとかね~」と呑気な返答を返している。よし。
 まぁ確かに彼女は美人さんなので当たらずも遠からずといったところだがこれでちょっと母の足に顔を押し付けつつ照れ隠しと見せかけて考える時間を稼ぐ。
 勝生勇利にとって奥川ミナコという存在は非常に重要な人物である。記憶からさらうに、彼女がいなければそもそもが始まらないといってもいいだろう。勝生勇利の全ての始まりは奥川ミナコだ。彼女なくて、勝生勇利という存在の人生は動かない。
 そんな重要なファクターを占める彼女をさてどうしたものかと考えるが・・・いや、だってあまりにも彼女の存在は勇利にとって大きい。ヴィクトルとは別次元で超重要なキーパーソンだ。
 何より、彼女との師弟のような、ある種の親子のような関係性はただ切り捨てるにはあまりにも惜しい。こういう人材は人生において必要だと思うし、羨ましいとすら思う。
 けれども・・・危険な目は詰むに越したことはないだろうな、とも思うのだ。奥川ミナコと紡ぐものは勝生勇利の根幹に関わる。彼がヴィクトルの目に留まった音楽性は彼女と出会って育まれたものだ。いやまぁ中身が私の時点でどうよ?と思うし、そこまで才能が発揮できるかどうか・・・。肉体スペックはあっても活用するのが私ではなぁ。あとバレエがしたいのかと言われると別にしたいわけでは・・・ごにょごにょ。
 ・・・うん。ここはまぁやんわり子供らしく拒否をして、諸々の初期フラグを折る方向で・・・。
 方針を固めて、ごめんよ勇利そしてミナコ先生。と思いながら母の足に顔を押し付けながらそろそろと顔をあげて―――ヒュ、と息が止まった。

「・・・っぁ、」
「勇利?」

 はく、と僅かに戦慄いた唇が、呼吸を忘れたように掠れた声を零す。ぐっと見開いた目で、怪訝なミナコ先生の顔を見上げて、はくはくと口を動かす。

「勇利・・・?どうしたと?」

 頭上からの母の不思議そうな声が聞こえるが、それ以上に息苦しさに喉がひくりと引き攣った。母のズボンから手を放し、狼狽える視線から逃げるように胸を引っ掻くようにぐしゃりと握り潰して前かがみに俯く。
 心臓が、悲鳴をあげている。
 強く握りしめられ今にも潰されてしまいそうで、それに抵抗するかのようにどくどくと大きすぎる鼓動を打つ心臓が以上な稼働率で追い立てる。呼吸ができない、心臓が痛い。息苦しさと心臓の激しい動きに、一気に脂汗が浮かんできた。やばい。苦しい。なにこれ。脳内に酸素が回らない。くらくらする。待って、酸素、肺が、いや心臓が。

「勇利?勇利!!??」
「勇利、しっかりしなさい!!」

 耳鳴りがひどく、周りの音がハウリングして耳障りだ。いや、これは血流の音だろうか、ザアザアと流れるノイズ音に似て、胸元を掴む手が白くなるほど強く握りしめ、その指先の感覚も痺れたようにおぼつかない。チカチカする視界に、崩れるように前のめりに膝をついた。
 がつん、と両膝を打って痛いと思うのに、それ以上に心臓の痛みが全てを凌駕する。

「お父さん!!お父さん勇利がぁ!!」
「勇利、息をしてっ勇利ぃ!」

 悲鳴が聞こえる。前のめりに倒れそうになった私を抱きとめた誰かが、ぺしぺしと頬を叩く。その衝撃に一瞬視線をきょろりと動かして、霞んで見える向こうにひどく焦った誰かの顔が見えた。あまりにぼやけて判別がつかない。お母さんなのか、ミナコ先生なのか・・・あぁでも、それどころじゃないな。
 ザアザアという血流のノイズ音が、叫び声みたいだ。心臓は五月蠅く全速力で、激痛は容赦なく呼吸を奪っていく。あれ、これここでいきなりバッドエンド?早くない?一瞬そんな呑気なことを考えて、私の意識はゆっくりと闇に落ちて行った。







 次に目を覚ましたのは、白い病室のベッドの上だった。
 ふっと明けた視界に映る天井が見慣れた木目のそれではなく、ベッドのシーツもなんかパリッとしてて掛布団も肌触りもちょっと違う。何より鼻を通る臭いが家のそれではなく薬品混じりの独特のそれで、ぼんやりと病院かなぁ、と思考を巡らしながら周りを見れば、カーテンが四方を仕切った狭い空間で、あぁ大部屋の一角なんだなと辺りをつけて薄緑色のカーテンのドレープがやわやわと波打つの眺めていると、一際大きく動いたカーテンの向こう側から見慣れた顔がのぞいた。眼鏡をかけた丸顔の、愛嬌のある顔立ちをした女性。お母さんだ、と思うと、私はまだはっきりとしない意識のままでカッスカスの口を動かした。

「おかあさん・・・」
「っ勇利!起きたと?」

 声をかけると母は眼鏡の奥の瞳を丸くして、それから心底安堵したようにくしゃっと顔を歪めるとそっと私の手を握った。大きな水仕事にかさついた手が労わるように小さな手を撫でて、よかった、と吐息のように囁く。その様子に大分心配をかけてしまったなぁと思っているよお母さんの後ろのカーテンが更に大きく、今度はいささか乱暴に波打って更に人影が姿を現す。

「寛子、勇利の様子どう?」

 そういってひょこっと顔を見せた彼女は、目を覚ましている私を見つけると目を見張り、亜麻色の髪を揺らして勇利、と病院であることを気遣ってかいくらか控え目に名前を呼んだ。
 それから一気に脱力感でも襲ったのか、がくっと肩から力が抜けて表情からもなんだか気の抜けた様子が伝わってくる。寄っていた眉間の皺が解けて眉尻が下がって、はぁぁぁ、と肺の中に溜まっていた酸素を全て吐き出す勢いでピンク色の唇からため息が零れた。

「よかった・・・目ぇ覚めたのね・・」

 そういって前髪を書き上げるようにぐしゃりと下から救い上げて横に流して、彼女はお母さんの横に手をついてそっと私の頬に触れる。手をついた重みでぎしっと揺れたベッドの振動が伝わり、冷たい指先が頬を撫でる。確認するかのように丸みを帯びた頬を辿って、視線一杯でよかった、と告げる彼女に、私はいまだぼんやりとした頭と定かではない視点で、乾いた唇を戦慄かせる。

「ミナコせんせぇ・・」
「ん?」

 声をかけられて、彼女が小首を傾げる。小さな声だったので聞き取り辛かったのか、顔を近づけてきた彼女は少し不思議そうな顔をして・・・後にこれが私が彼女を「先生」呼びしたからだと何かの拍子に知ることになるが、それはさておき私はいまだ霞みがかった思考でとろりと目を潤ませた。

「ぼく、ばれえ、したい、なぁ・・・」

 見開いた眼差しに、言うだけ言った、とばかりに私の瞼は閉じてしまう。
 それからすぅすぅと寝息を立てた私を、大人二人が鳩が豆鉄砲を食らったような顔で見つめていた。



 


「銀盤カレイド3」

 結論を出すとすればスケートをしなければいい話だよね、と元も子もねぇな!!という結論に行き当たるのに、さほどの時間は要さなかった。
 当然だ。赤ん坊になった私の時間は腐るほどにある。なにせ寝るか食べるか泣くかぐらいの動作しかする必要がないというかできないので、考える時間だけは本当にたくさんあったのだ。
 現実が受け止められないよ?そんなこと言ってもしょうがないって経験則から知ってるので、早々に諦めた私は多分もう終わってる。
 さて、話は戻して今後の私の方針ではあるが、とりあえず私の第一の人生目標は「ヴィクトル・ニキフォロフ」を死なせないこと、である。これは勝生勇利との約束というか願いなので、それを受けてこうなってしまった今その大望を果たさずに今生で死ぬことは許されまい。
 本来ならば許されないことである。過去を変えるなどあってはならないことだ。かつてはそんな禁忌を犯させないための役職についていたこともあったので、この行動は彼らに対する裏切り行為なのかもしれない。だが、あえて言おう。神様がオッケー出してるんならいいんじゃね?と。
 そも、ダメならダメで恐らく何をどうしようと結末は変わらないだろう。そして、恐らく変えさえない為の「抑止力」がなんらかの形で働くはずだ。あらゆる邪魔と障害が起こりうることは想定してしかるべきである。それがもしかして「刀剣男士」なのかもしれないし時空パトロール的なものかもしれないし異世界からの何かかもしれない。それは全くの未知の現象であるが、その覚悟もなしに望む全てを手に入れることは、きっと叶わない。
 なのでどうしようもないときは諦めてくれ、というしかない。助けるとはいったものの、所詮人間なのでできることには限界があるんだよ。言い訳だけれど、最早白龍の神子ではない私では神様バックアップはそこまで期待できないので、運命を捻じ曲げる行為がどこまで許容されるか皆目見当もつかないのだ。やれるだけのことはやるけどねー。
 まぁなのでその前提として「スケートをしない」という結論が導き出されるわけだ。
 だって勝生勇利とヴィクトル・ニキフォルフの繋がりの大前提は「スケート」である。切欠はそれでそれがなければ2人の人生が交わることは・・まぁ、よっぽどがなければ多分ないだろう。
 スケートありきで出会ったのだから、出会った過程でスケートがなくても繋がった関係性は育まれることはない。
 まぁスケートをしていても「びーまいこーち!」騒動がなければ大丈夫な気もするが・・要するに世界から「皇帝」を奪うような事態にならなければいいんだよね?
 彼が死んだのは、勇利が世界から皇帝を奪ったと同時に皇帝が皇帝ではなくなってしまったということが起因している。まぁいくら皇帝だのリビングレジェンドだの言われていようと人間なのでいつかは負けるし玉座ってのは大概代替わりするものだし寄る年波には勝てないし、彼は満足してたんだからいいじゃないかと思うのだが、そう思えない人間が一定数いることは否定できない。とりあえず魔女によって堕落した皇帝という図式を成り立たせずにおけば、大体の死亡フラグは折れるはず、と読む。となれば勝生勇利には申し訳ないが、スケートは諦めてもらうしかない。まぁ、私としては競技者だとか到底向いてないし、体は勝生勇利でも中身がこれなのでああなれる気が全くしない、というのもあるが。うん。しょうがないよ中身凡人なので。
 となると将来は実家を継ごうかな。あ、でも真利姉ちゃんが継ぐんだっけ?あーじゃぁ板前とかいいよね。料理は嫌いじゃないし、それなりにできる自負もあるので、専門的に学ぶのもいいかもしれない。それとも経営とか学んだ方がいいかな。あぁ、やれることは色々あるなぁ。幸いにしても決してファンタジー枠の世界ではないので、個人的にはいくらか気楽な気持ちで将来に夢を馳せた。
 ねぇ、知っているかい勝生勇利。
 君の世界はスケートだっただろうけれど、本当にそんなものなくても色んな世界があったこと。
 君は確かにヴィクトルに出会って愛を知ったけれど、でも君の愛はいつも一人にだけ注がれていたね。それが悪いことだとは思わないし、それはそれで幸せだとも思う。事実君は幸せだったけれど、同時にね、こうも思うんだ。
 もっと周りに愛を振りまけば、こんな間違ったこと、しなくてすんだんじゃないのかなって。
 愛を知った癖に、自分のスケートは周囲の支えがあることを自覚したはずなのに。それでも一番大事なものを一つにだけ向けすぎちゃうから、こんな突拍子もないことしちゃうんだよ。
 だから私は、ひっそりこっそり第二の人生目標を立ててみる。



 第二の人生目標は「勝生勇利」よ世界を知れ、だ。



 それで自己嫌悪に陥ろうが罪悪感に駆られようが後悔の坩堝に落ちようが、知ったこっちゃないけどね。





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