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このにーさん、金持ちか。いや、金持ちに違いない。通された部屋で、お兄さんが慌ただしく部屋の暖房をつけていく中、非常に肩身の狭い思いでふっかふかの皮のソファの端っこに座って私は顔を青ざめさせた。・・・正直ソファは皮よりも布製のものの方が好きだったりするが、まぁどうでもいい。これも年数は感じるがなんか物自体はよさげだよな、としげしげと値踏みをしつつ、あの人何者、とコートを脱いでさらにはジャケットも脱ぎ、白いワイシャツにネクタイを緩めたパッと見サラリーマンに見えなくもない恰好のお兄さんを盗み見て、いぶかしげに眉を潜めた。普通のサラリーマンと違うのは、お兄さんが無駄にイケメンで尚且つシャツの上からでもわかる鍛えられた体と、何より纏う空気が一般的な会社員とは一線を隔しているような気がするからだ。あくまで気がするだけで実は会社マンかもしれない。あれか、エリート系か。キャリア組ってやつか!
そもそも私の住んでいたアパートと比べることがどうだろうか、という問題ではあるが、それにしたってこのマンションはあれだ。外観、内装ともになんか高級感溢れている。ここに入るだけでなんかホールにコンシェルジュ?だっけ?みたいな人がいたし、セキュリティはなんかすごそうだったし、ごめんあまりにも馴染みがなさすぎてあれなんだが、とりあえず住む世界が精神的にも物理的にも違う、と思う。
そんな住む世界が違うと言わしめた場所を、お兄さんは慣れた様子で(住んでるんだから当然か)行動し、部屋中の、というかリビング?の暖房をつけたあと、大人しくしてろよ、と一言言い残して再び何処かに消えた。
ふふ、こんなところで動き回れるわけねぇだろ、とやっぱりびくびくしながら(庶民と貧乏根性は健在です)ちらちらと部屋を観察する。・・・とりあえずでかいテレビに興味が引かれつつも、そういえばテレビなんぞこの世界でみたことねぇなぁ、とぼんやりと何も移していない真っ黒な画面に映る自分を見つめてため息を零した。
この世界ではどんな番組をしているのだろう。新聞すらもとっていなかったので、番組内容も私が知ることはなく、液晶画面の向こう側の世界がどんなものなのか、興味と関心がわいたが他人様の自宅で勝手にテレビをつけるわけにはいかない。諦めて視線を再び部屋の周囲に巡らせるとがちゃりと音をたててドアが開いた。びくっと反射的に肩を揺らして振り向けば、お盆を片手に持ったお兄さんがいて、私はきょとりと目を瞬かせた。何持ってきたんだろう、この人。
「なんだ、そんな端っこに座って。もっと真ん中に座りゃぁいいのに」
「・・・すみません」
「怒っちゃいねぇよ。ほら、腹減っただろ。・・とはいっても、大したもんじゃねぇけどな」
「ぅえ?」
ソファの端で縮こまるようにして座る私をくすっと笑いながら、お兄さんはソファの前のローテーブルにお盆をおいて、子供の手にはちょっとばかり大きすぎる割り箸を差し出した。
それを受け取りつつ、テーブルに置かれたものを見て、私は割り箸を持ったまま困惑したように眉を下げた。
テーブルの上にはインスタントラーメンが置かれていて、ぴっちりと蓋こそされているものの、空腹には辛い香りをさせて食欲を誘う。ピークを過ぎたとはいえ、目の前に食べ物を見せられれば反応するのは当たり前で、多分口にいれれば止まらなくなるんだろうな、ということは容易に察しながらも、どさ、と私の隣に座ったお兄さんを見上げた。
お兄さんが座った反動でぎしぎしとスプリングが跳ねて私の体も揺れたが、お兄さんは気にもしないで笑みを口元に浮かべる。
「悪いな、こんなもんで。今冷蔵庫に碌なもんがなくてな。それにすぐできるものっていったらこんなもんしか思いつかなかったんだよ」
「いえ、それは、いいんですけど・・・」
「なんだ?このメーカーのは嫌いだったか?」
「そんなことはないです。えっと、・・・頂きます」
食べてもいいのだろうか、という躊躇だったのだが、お兄さんは明らかに私に食べさせる目的でこのカップ麺を用意したらしい。お兄さんの分はないのだろうか、と思ったが、一つしか用意されていないところ、食べる気はない、のだろう。自分一人だけ食べることにいささかの抵抗は覚えたものの、早く食わないと伸びるぞ、と急かされてはいつまでも躊躇しているわけにはいかない。お腹も減っていることだし、ここは素直に好意に甘えておくべきだろう。
おずおずと手を合わせて頂きます、と小声で言ってから、憎たらしいほどに小さな手で大きな発砲スチロールの器を支えて蓋をぺりぺりと剥がす。途端むわっと沸き立つ湯気に美味しそうなチキンスープの香りが鼻腔を刺激して、ぐぅ、とお腹の音が鳴った。・・・・・・・・・・・・・・鳴るなよ・・・!幼子としては正常な反応でも中身は成人越えのいい歳した人間だ。普通に腹の虫の声など聴かれたくはない。いさささかの気まずさでちら、とお兄さんを横目でみれば、どうしたことか。面白いのを堪えるような、ただただ微笑ましいような、どえらい穏やかな目でこちらを見ていたので、逆にいたたまれなくなって急いで視線を外した。なにあの保護者の目・・・!
暖かな視線にここ最近馴染みがなかったので微妙に緊張しながら、器ごしにも熱いカップ麺を少し動かしづらい大きな割り箸で食べていく。ちょっと時間を置きすぎたのか麺は確かに多少伸びていたが、問題ない。
ずるずるとすすりながら急にあったかいものを食べたので出てくる鼻水をずずっと吸い込んで、染みわたるようなスープの暖かさと空腹を満たす醤油の味にほう、と人心地ついた。カップ麺うめぇ。
空腹は最高の調味料とはいうが、確かに、お腹が減っていれはただのカップ麺も極上の味に思える。まぁ通常でもこのカップ麺は普通に美味しいと思うが。それでも満たされる感覚は何物にも代えがたく、ずるずると麺とスープをすすって着実に胃袋を満たして体の中から温めていく。
インスタントも久しぶりだよなぁ、と思いながらごくごく、とスープを飲み干して、私は割り箸とカップ麺の容器をテーブルにおいた。
「ごちそうさまでした」
「おう。お粗末さん」
美味しかった。ぷはぁ、と満足の息を吐きだして満たされた胃袋に満足していると、お兄さんはくつくつと笑いながら、お盆をもってカップ麺を片づけようとするので、はっと気が付いて慌てて両手を差し出した。
「片づけるぐらいは自分でします!」
「あぁ?あー・・気にすんな。それよりもお前は風呂入ってこい。そろそろ湯も入ったころだろうからよ」
「お風呂?・・いやいや!私よりもお兄さんが先に入るべきですよ!」
ぽん、と頭に手が置かれてゆっくりしてこいよ、なんていうお兄さんに言うことには心惹かれるものがあったが、部屋の主を差し置いて先に入浴とかできるわけがない。そもそもお風呂に入っていいんだろうか。いや、入れるものならば入りたいですけど、しかし他人様の家なわけだし・・!てかこれはあれか。確実にお泊りコースなわけ?ありがたいですけど!
眉間に皺を寄せて躊躇する私に、お兄さんは少しだけ考えるような素振りをみせて、あぁ、と納得したように頷いた。
「一人じゃ入れねぇのか?一緒に入ってやろうか」
「一人で入らせていただきます」
ちょ、おま!確かに私今お子様ですけど!年齢的に親と一緒に入っててもなんら不思議のない年頃ですけど!だからといって一緒になんて入れるわけがない!何度も言うが(内心だけで)、私の中身は外見年齢を大幅に裏切ってるんだってば!即答で拒否すると、その早さにお兄さんはちょっと驚いたような顔をしつつも、そうか、といって再び頭をポンポンと叩いた。・・・子供扱いって、びみょーな気分になるよね・・・。
至極複雑な心境で、半ば売り言葉に買い言葉の勢いで入浴することに決まってしまったが、やっぱり内心ではいいのかなぁ?と首を傾げざるを得ない。大黒柱差し置いて見知らぬ子供が風呂入っていいのか?まぁ本人がいいっていってんだからいいんだろうけど、でもなぁ。しかしなぁ。それになぁ。
「・・・私、着替えとか持ってないです」
「あーそうだなぁ。・・まぁそこはなんとかするから、餓鬼は気にせず温まってこい。雨にも濡れてたんだから、早く温まらないと風邪引いちまうぞ」
「でも・・・」
「なんだ。やっぱり一緒に入りたいのか?」
「いや違いますけどね。・・・・わかりました。お先に入らせていただきます」
・・・・まぁ多少、イケメンの裸体!と思わないでもないけれども同時に自分の体(幼児体型とはいえ)を見せるわけにはいかない。というか見せたくない。気おくれしながらも、私諦めのため息を吐いてお兄さんを見上げた。
背の高いお兄さんを見上げるのは骨だが、これだけは聞かなくてはいけない。
「お風呂場って、どこでしょうか?」
そこ知らなきゃ入りようがないですよ、お兄さん。
「シャイニーと!」
「透子の!」
「「マジLove♡クッキングー!」」
ドーン!バラララララ!!!
「・・・・・・・・・・・・・とまぁ、よくわからないタイトルコールなんぞさせられたわけですが、要するにどういうことですか」
「要するにー!Youと、Meで!クッキングしちゃいましょー!ってことデース!」
「はぁ。・・・まぁ、タイトル見ればおおよそわかりますが、なぜ人選が学園長?ここネタ的に四ノ宮君的なポジションじゃないんですか?それかガチでするなら聖川君とかだと思うんですけど」
「それはー書き手の都合デース!」
「わぁ、それ言っちゃいけない一言ですよ学園長・・・ていうかできるんですか?料理」
「Meに不可能という三文字は赤ペンで消しちゃってるのでアリマセーン!問題ナッッスィーーング!」
「(テンションたけぇ・・・)じゃぁ私はアシスタント役なんですか?」
「いえいえ、メインはMiss.ナカムラデース!」
「え?ここは元とはいえアイドルがメイン張るべきじゃぁ・・・」
「それでは今日のメニューイキマッショー!」
「スルーか!!・・えーと、今日のメニューは苺のショートケーキです。・・・予想外にシンプルなものが」
「スイーツの王道は外せまセーン」
「まぁいいですけど。えーとじゃぁ材料紹介です。18㎝の円形ケーキ型を使用しての目安になりますので、ケーキ型の大きさには注意しておいてくださいねー」
「大きすぎても小さすぎてもダメダメなのよ!」
「では材料ですけど、土台となるスポンジケーキの材料はこれ」
スポンジケーキの材料 | |
卵 | 3個 |
---|---|
薄力粉 | 90g |
グラニュー糖 | 85g |
無塩バター | 30g |
デコレーション用の材料 | |
生クリーム | 200ml |
---|---|
グラニュー糖 | 40g |
いちご | 1パック |
ミントの葉 | 適宜 |
ホイップクリーム | 100ml |
かくん、と首が落ちた瞬間、その衝撃ではっと意識が急浮上し、重たい瞼をごしごしと手の甲で擦った。
やっべ、マジ寝してた。堪えきれないあくびを懸命に噛み殺しながら、どこか寝起きの腫れぼったいような重たい目で瞬きを繰り返して辺りを見回す。座ったまま寝ていたせいか、首が痛いし体の節々がなんか強張っている。せめて車のシートを倒せばよかったか、と思ったが、そこでふと、これが自宅の車でないことに気が付いて一瞬思考が止まる。え?お?あ?ぱちぱち、と見覚えのある風景の中、見覚えない車内の様子に硬直していれば、横から低い声で起きたか、と声をかけられた。反射的に声のした方向に振り向けば、相変わらずここ数年みた覚えのないイケメンがあって、ますます目を丸くする。・・・・・・・・・・・・・・・・んん?
「どうした?」
「・・・あっ。いえ、なんでも・・」
あんまり私が凝視するものだから、不思議そうな顔で首を傾げたお兄さんに、ようやく思考と現状が合致して冷静さを取り戻す。あぁ、そうか。私この人に家まで送ってもらってたんだ。寝て起きた直後だったからなんだか状況がよくわかってなかった。どことなく焦った心臓を落ち着かせるように宥めながら、お兄さんから視線を外して窓から外を伺い見ると、見覚えのあるアパートが見えて、再度私はあ、と声をあげた。
そんな私に気が付かないように、お兄さんは車についているカーナビを操作しつつ、うーん、と唸り声をあげた。
「この辺だと思うんだがな・・」
「あ、えっと、お兄さん」
「ん?」
「私の家、ありました」
あぁ、カーナビで住所調べてたんだ。しかしただのボロアパートなど早々正しい位置がわかるはずもなく、付近まできたはいいものの、そのあとどう動けばいいか迷ってた、というところか。・・付近まできたのならば起こせばいいのに、起こさなかったのは彼の優しさだろうか。甘いというか、なんというか・・・。状況的に起こした方がいいような気もするが、その優しさが嬉しくない、というわけではないので、くすぐったく思いながら、悩むお兄さんに声をかけて窓から自宅アパートを指差した。むしろここまで見えたのならばあとは徒歩で十分である。
かといってここから歩きます、といってもこの人のことだからなんとなく却下されるかもしれない、と思って、どこだ、と助手席の方に身を乗り出してきたお兄さんに窓をあけて外を指差した。冷たい空気が暖かな車内に入り込んで中の空気を入れ替えていく。吸い込んだ空気がどこか澄んでいるようにも見えて、換気も大事だよなぁ、と思いながら頭のすぐ上のお兄さんをちら、と見上げて説明を口にする。
「ほら、あの三階建ての家の横にあるアパートです」
「あぁ、あれか。すぐそこだな」
「はい」
深夜も深夜な時間だから、明かりのついているような家はなく、電信柱につけられた街灯のみが頼りなく道路を照らす中、私の後ろ、頭の上からアパートの正確な位置を把握したお兄さんは、運転席に戻るとシートベルトを付け直して、止めていた車のギアを入れ替えた。ガコガコ、と素早く動くそれを横目でみて、私も身を乗り出していた体を戻すと窓をしめて入れ替わった空気に深い息をした。
もうすぐ家につくのだと思ったら、感慨深いようなたどりつくのが怖いような・・。家の中はどうなっているんだろう、と思いながら、そう時間も経たずにたどりついた自宅に、私はついてしまった、と眉を下げた。
・・・いるのだろうか、あの人は。それとも、もう出て行ってしまったのだろうか。古びたアパートで、どの部屋にも明かりが灯っていない薄ら寂しい様子を車の中から見上げつつ、わずかに目を伏せると、仕方ない、と口角を持ち上げた。
「ありがとうございます、お兄さん。無事に家に戻って来れました!」
「あぁ。でも、明かりがついてねぇな」
「夜も遅いですから、寝てるのかもしれません」
「・・・普通起きてるだろ。子供がいないんだから」
・・・それもそうか。子供が行方不明になんかなったら、初日ぐらいは徹夜するかも。人にも寄るだろうけれど、まぁ、そういう親の方が多い、かもしれない?・・・秀麗姉さんたちなら、確実に起きてるだろうなぁ。
この世界の親よりも、よほど家族らしい優しい紅の人たちを思い出して、くすり、と笑みがこぼれた。
彼女たちならきっと、一日中駆けずり回って探してくれるに違いない。こんな風に、おいて行ったりなどしないだろう。・・・もっとも、もう探されても私が彼女らに会えることはないのだけれど。
もうきっと、私は思い出になっているのだろうな、と思いながら、母の中にも私は思い出として存在できているのだろうか、とふと思った。捨てたくて捨てたわけじゃない、という甘い希望に縋りたいのか、何もかも諦めてこういうものだったんだ、と悟ればいいのか。母の態度は曖昧で、私は時折どう捉えればいいのかわからなくなる。
いらないから置いて行ったのか、置いて行かなければ幸せになれなかったのか。・・どちらにしろ、現状に差異などあるはずもないが。
眉間に皺を寄せたお兄さんに、じゃぁ今も探してるのかも、といえばそっちの方が信憑性があったのか、かもな、といってお兄さんは運転席から降りた。それからわざわざ助手席側に回ってドアをあけたお兄さんに促されるまま暖かい車内から寒い外へと出ると、その温度差にぶるりと身震いをした。吐きだした息が白く濁って暗い中に何か靄らしきものを作り出す。・・・てか。
「もう、家についたから大丈夫ですよ?」
「一応親御さんに届けるまでが責任だからな。事情だって説明しねぇと」
「いや・・・自分でできますし」
「ばか。警察だって動いてるだろうからな。経緯ってのははっきりさせとかねぇと後々問題になるんだよ」
・・・そりゃそうだろうけども、このまま帰っちゃえば面倒事だってないだろうし、私としても色々助かる部分がね、あるんだけども。けれども、ほら、行くぞ、と背中を押されては断るに断れない。そもそも断ったところで押し問答になるだけのような気がする。・・・あぁ、それに、今の私は外見は幼児なのだ、そういえば。中身がこれなせいでいまいち自覚は薄いが、お兄さんからみれば私がうまいこと事情を説明できるなんて思わないだろう。
だからこそ多少強引にでも進もうとしているのだとはわかったが、・・・さて。どうしたものか。家にいればいたで、まぁ、うん。母親がそれなりに対処してくれればいいが、そうでなかったら・・・私を探し回ってるんだと思わせればいいか。そうすれば家にいないことも説明がつくし、お兄さんを早く解放させてあげられる。
こんな深夜まで子供の世話など焼かせてしまって、ありがたいやら申し訳ないやら、と思いながら、カンカンカンカン、と甲高い階段の音をたてて二階に上がり自分の部屋番号の前までつくと、背後のお兄さんをちらちらを気にかけつつドアノブに手をかけた。
がちゃ、がつん。回りきらないドアノブに、顔が引きつる。おおぅ。
「・・・鍵?」
「あ。あー・・・・きっとまだ探し回ってるんですね!」
これは家にはもういないフラグきたーーー!あ、でも寝てたら戸締りぐらいはするよね。いやいや寝てたらまずいっしょ、どんな家庭事情だと思われるよ!・・・思われたところで赤の他人なんだからそんな突っ込んでくるとは思わないけども!ともかく、私は誤魔化すように口にして、合鍵を探すべく玄関横のめっちゃ重たい犬の置物をごりごりと音をたてて傾けて、開いた隙間から手をいれて合鍵を取り出した。子供だからこれが重いのか、それとも大人でも重いのかわからないが、今時こんな隠し方ないだろ、と突っ込みをいれられそうな隠し場所である。
ぐるりと回せば施錠を解除する音が聞こえて、無言でその様子を見ているお兄さんをちらちらを気にしつつそっとドアをあける。
きぃ、と音をたてて開けた部屋は、まぁ予想通りに暗くて中の様子なんてちっともわからない。・・・人の気配もないな。・・・夜逃げか?いや夜中に逃げた保障はないので昼逃げ?まぁいいか、どっちでも。
後ろから部屋の様子をみたお兄さんが怪訝そうな空気を纏う中、靴を脱いで(・・・玄関に一足もないや)中に入る。さすがにお兄さんも上り込む気はなかったのか、玄関前で立ち止まったままだが、それを気にせずに部屋に入ると、ぱちりと背伸びをして部屋の電気をつけた。にわかに明るくなった部屋に、私は眉をピクリと動かす。
「・・・すっきりしたな」
家具はまだ残っているものの、部屋の中に見えていた母親の私物が何もない。試しに箪笥をあけてみると、母親の衣服は何もなくて、がらんとしていた。鏡台をみてみても、化粧用品など一つも残っていない。案外きれいに片づけていったんだな、と考えていると、ぎしりと床板が鳴る音がしてはっと注意をそちらに向けた。
玄関前で待っていはずのお兄さんが、険しい顔で室内を見渡している。思えば大分背の高いその人がいるだけで、狭いアパートの部屋の中が随分と狭く感じられて、天井さえも低く見えた。・・・マリアン先生ぐらいあるのかな?この人。
「随分と物がないんだな」
「え、っと・・・」
「ここ、本当にお前の家か?」
「そう、ですよ」
事実ここは私の家だ。もっとも、これからもそうとはもういえないだろうけれど。正確には家だった、というべきなのだろうが、怖い顔をしているお兄さんにそんなことがいえるはずもなくて、私は困ったように眉を下げてそっと開けっ放しの箪笥をしめた。
「もともと物が少ないんですよ、うち」
「物が少ない、なぁ」
さすがに苦しいか。物が少ない、で片づけるにはなさすぎるといってもいい部屋に顔をしかめると、ぎしぎしと床板を鳴らして鏡台まで近づいたお兄さんは、その小さな引出をあけて中を見分すると、なにもねぇな、とつぶやいた。
それから丸めた背を伸ばしてもう一度部屋の中を見渡したお兄さんはくっと眉を寄せて、私を見下ろす。その険しい顔に思わず視線をそらすと、低い声でお兄さんは訪ねてきた。
「・・・母ちゃんは」
「・・・私を探し回ってるのかもしれませんね」
「父ちゃんは」
「もともといないんです。シングルマザーってやつです」
「そうか」
何もかも苦しい。おそらくおおよそ悟られたのではないかと思うのだが、それでも真実を口にするのは憚られた。じっとこちらを見るお兄さんを見つめ返して、再度、どうしたものかなぁ、と考えると、困り顔で笑みを浮かべた。
「あの、」
「あ?」
「送ってくださってありがとうございます。何もお礼はできなくて申し訳ないんですけど・・・母も多分今日は帰ってこないでしょうし。どうぞ、お帰りください。ご迷惑をおかけしました」
見知らぬ人には重たい事情だ。後ろ髪は引かれるかもしれないが、こんな面倒なことにこれ以上巻き込みたくはない。そもそも巻き込まれたいとも思わないだろう。幸いにも家には戻って来れたし、押入れの中には布団だってあるだろうから、寝て過ごす分にはなんら問題はない。家の中は寒いが、外ほどではないのでさしたる問題性はない、と私は目を見開いたお兄さんににっこりと笑った。
「お前、」
「明日にはきっと母も帰ってきてますし。大丈夫ですよ!」
いえば、痛ましそうに眉が寄せられる。・・・まぁ今の発言はまるで現状を理解できていない子供のそれだが、仕方ない。この年の子供が正しい状況判断をこの状況でできるとは思えないので、あざといとは思いつつもこう反応するしかないのだ。いまさらだって?・・だってこれ以上巻き込んでられないじゃん!
とりあえずにこにこと笑っていると、深いため息を吐いたお兄さんは、手のひらで顔を覆うと、きっかり十秒程度で顔をあげて、渋面でずんずんと長い脚を動かしてこちらに向かってきた。
その迫力に思わず気圧されるように後ろに下がると、有無を言わせずにぐわし、と胴に腕が回された。
へ、と目を丸くすればそのまま持ち上げられて、床と足に距離ができる。宙に浮いた不安定な体制と、腕が食い込む腹部に、恐る恐る上を見上げるとそこにはやっぱり難しそうな顔をしているお兄さんがいて、私は困惑を顔に浮かべた。
「お兄さん・・・?あの・・ここ、私の家ですし、もう、その、お兄さんのお仕事は終わったと・・・思うんですけど・・・」
「黙ってろ」
「え?ちょっと?え?」
だから下してほしいなぁ、と密やかに訴えてみるも、お兄さんはぴくっと眉を動かしてそれだけ言うと、無言でずかずかと玄関に向かって歩き出した。・・・これはちょっとなんかありがたいけど困ったフラグっぽいぞ-?!
「お兄さん、私、ここでいいですよ!?」
「こんなところで、どうするつもりだ」
「どうって、いや普通に一晩明かしますって」
「親も帰ってこない部屋でか?」
「それは、その、そのうち帰ってくるかもしれませんし・・・」
「・・・そうかもな。でもな、今日帰ってこなかったら、どうするんだ?」
「待つだけですよ。でも、その、だからといってなぜにお兄さんの車に逆戻り・・・?」
傍から見たら誘拐されているようだ。小脇に抱えられた状態でカンカンと足音をたてて階段下りたお兄さんに、再び助手席に放り込まれてうわぁ、と言葉をなくす。運転席に座ったお兄さんを見上げれば、お兄さんはこちらを真顔で見つめて、それからぼす、と私の頭に手を置いた。
「保護するだけだ。・・明日、もう一回ここに連れてきてやるから」
優しい、声で。多分、色々ともうわかっているだろうに、それでもわかっていないのだろう子供に悟らせないように、明日の約束をする声に。私は、反論の言葉を、どうしても口にすることが、できなかった。
結局私は、また、優しい人の優しさに、つけこむように甘えてしまうのだ、と、彼の手の下で、小さく口元をゆがめた。
大きな手に引かれるまま乗り込んだ車の中は、冷え込む外とは裏腹に暖かな空気に満たされていて、冷え切った体にはありがたいことこの上なかった。ガチガチに固まっていた体の筋肉が解れていくような、凍えていた指先に血が再び巡っていくような、熱が戻ってくる感覚に無意識に手袋越しに両手をすり合わせると、私を助手席に座らせたまま何処かに消えていたお兄さんが、がちゃっと運転席のドアを開けて乗り込んできた。
雨に濡れた肩と丹精な横顔を無意識に見つめると、彼は運転席に乗り込んで、シートベルトを着ける前にほら、とこちらに向かって何かを差し出してきた。
「寒かっただろ。これでも飲んどけ」
「・・・ありがとう、ございます」
彼の大きな手では余る缶も、私で両手を使って包み込むように持たねば釣り合わない。手袋越しとはいえ、じんわりと伝わる暖かさに、これを買いに行ってくれていたのか、としばし席を外していた理由を悟り、きゅっと缶を握りしめた。
暖かいレモンティーの缶が、身に染みる。わざわざ飲み物買ってきてくれるとか。なんなのこの人もう本当いい人。
そしてありがたい。ぶっちゃけ暖房のきいた車内というだけでも長いこと寒空の下にいたわが身には天国にも等しい状況だが、この上飲み物まで恵んでもらえるとは。軽く泣きそうになりながら、手袋を外して直接缶の暖かさで手を温めつつ、プルタブに指をかけた。力をこめるものの、悴んだ指先は思うように動いてくれない。かち、かち、と何度か爪でひっかくような音をたててトライするものの、思いのほか堅いそれはうまく持ち上がらず、私は少しだけ眉を寄せると、しょうがない、と早々に諦めた。しばらくこれで手を温めて、満足に動くようになったらまたやろう。
ちょっと感覚が麻痺してて動かしづらいんだから、あったまれば問題ないはず。諦めて両手で包むように缶を握りしめているとするりと不意をつくようにそれが上から抜き取られた。手の中からなくなった暖かさに瞬き、慌てて振り返れば案の定、お兄さんが缶を握っていて、私から缶を取ったお兄さんは、無言でぷし、と音をたてて缶をあけて、再び私に差し出した。
「ほら」
「お、お手数おかけいたします・・・」
たかが缶ごときに人様の手を煩わせるとは・・・!いや、本当は開けれるんですよ。子供ですけど缶ぐらいあけれますし、ただちょっと今は手がかじかんでるからやりにくかっただけで、いやもう本当人様の手を煩わせるとか・・・!
あけてもらった缶を受け取りながら、普段簡単にできることなだけに、他人の手を煩わせたことが申し訳なくて、眉を下げるとお兄さんは眉を少し動かして、くしゃ、と頭を撫でててきた。
「ガキが遠慮すんな。ほら、冷めちまうぞ?」
「・・・ありがとうございます」
さっきから私ありがとうしか言ってない。そう思いつつ、湯気のみえる飲み口に誘われるままちびりと口を押し当てると、あったかい、というよりはむしろ熱い飲み物が口の中に入ってきて、ゆっくり飲んでよかった、と心の底から思った。これで勢いよく飲んだら確実に火傷するところだった。けれども口に含み、喉を通過する暖かさに無意識のうちに安堵の吐息を零すと、ハンドルに体重を預けてこちらをじぃ、とみていたお兄さんは、ふっと笑みを零して口を開いた。
「温まったか?」
「はい、すごく、あったかいです」
「そりゃよかった。さて、と・・・じゃぁ今から送るが、お前、家はどこだ?」
ちびちびと火傷しないように口に含みつつ柔らかな声にはて、この声聞き覚えがあるなとは思いつつも浸っていると、落とされた問いかけにぴくりと動きが止まった。
「ん?どうした?」
「いえ、なんでも」
怪訝な声に首を横にふって答えながら、ぐいっと缶を傾ける。家、か。・・・帰ったところでどうにもならない現状がつきつけられるだけだろうとは予想しつつも、現状それ以外に選択肢はないんだよな、と冷静に思考を巡らす。
まさか捨てられたんですとは言えないし、言われたところでお兄さんも困るだろうし、わざわざ送ってくれるという人にそんな面倒事に巻き込むわけにもいかない。警察連れてってくださいって言えばいいかなぁ、と思ったが、家に送ってくれる気満々の人に警察へ、というのもどうなんだ。いや問題はないか?別に。
てか本当、今の私の立場って・・・。コメントのしづらいわが身の境遇に遠い目をしつつ、まぁ、家まで送ってもらって別れた方が問題は少なくてすむか、と結論づけて、返事を待っているお兄さんを振り向いた。
「××町××番地〇〇アパートっていうところです」
「××町・・・おいおい。随分遠いな。どうやってそんなとこからここまでこれたんだ」
「気が付いたら・・・?」
と、答えるほかない。もはやお兄さんの中では迷子確定なのか、どこか感心したような疑うような、探る視線を貰いつつ素知らぬふりでレモンティーを口に含んで誤魔化しながら、ごくりと喉を鳴らした。酸味と甘みが絶妙です。美味しいなぁ・・・。
「・・・まぁ、いいが・・・。じゃあ行くぞ、シートベルトはしっかりしてろよ」
「あ、はい」
子供に追及しても仕方ないと思ったのか、理由よりも送るべきだと判断したのかわからないが、話題を切るとお兄さんは自分の体にシートベルトを巻き付け、私にもしっかりと注意を向けてから、ゆっくりと車を動かした。
ブルルン、とエンジン音のあとに動き出す車のフロントが水を弾く。ライトに照らされた道が昼間の様子と違うことを感じながら、ライトに照らされて見えた糸を引く水滴と、玉になってフロントガラスに張り付く水玉が、走る速度によってどんどん広がっていく様子をぼんやりと眺めて、明日には警察にでも自ら行くしかないかなぁ、と今後のことに思考を巡らした。うん。面倒だなぁ、本当。それでも、働き口さえ見つかるはずもない子供の身では、一人で生きていくことなど、できるはずもないのだ。
そんなことをぼんやりと考えながら、次第に落ちてくる瞼に、あ、これやばい、とぐっと目に力をこめた。車の暖房とか振動とか、今までの疲労とか。諸々が今きた。どっときた。やばい、眠い。寝そう。寝れる。むしろ寝たい。
うとうとと落ちてくる瞼と飛びそうになる意識を必死に繋ぎ止めていると、横からくくっと小さな笑い声が聞こえて、とろんとした目で横をみた。運転をしながら、ちらりと横目でこっちを見たっぽいお兄さんはその低く心地の良い声を響かせた。
「眠いんなら寝てていいぜ?ガキにはつらい時間だもんな」
「でも・・・」
「俺は気にしねぇからよ」
これでも中身成人してる、とは無駄な反論である。実際すごく眠いので、襲いかかる睡魔に抗いつつも、低い声で寝てろ、と言われたら、抗う気持ちすら根こそぎ奪われていく心地がした。うわぁ、なにその安眠ボイス・・・。
とろりと沈んでいく意識に、見知らぬ他人の車のなのに、とか、わざわざ送ってもらってるのに、とか、そんなことを考えながら、いつの間にか、ぷつりと意識はそこで途切れてしまった。
車の中って、なんでこうも眠気を誘うのでしょうか・・・。
今日の空は大層鬼畜だ。潜り込んだ滑り台の下で、しとしとと降り注ぐ雨音を聞きながらため息を吐く。この公園にもっと雨宿りができるような形の遊具があればよかったのだが、あまり広くはない公園にある遊具などたかが知れていて、せいぜいブランコと滑り台、砂場にジャングルジムと木馬、ぐらいだろうか。滑り台にしても、もうちょっとこう凝った作りであればもっと雨宿りに適していたのだろうが、ありふれた形の滑り台は、下にこそわずかなスペースはあるものの、ゆっくりと落ち着けるようなそれではなく背もたれもない骨組みに腰掛けるぐらいしかできない。それもあまり後ろにのけぞっては早々に雨粒の餌食となるので、動けるスペースなど極僅かだ。
重ねるならば、ちょっとでも横風が吹けば容易く雨は吹き込むだろう。じんわりと浸食する水たまりに靴をぐちょぐちょに汚しながら、どうしたものか、とぼんやりと考えた。
雨の冷たさに体は冷える一方で、幸い空腹はピークをすぎたせいか何も感じない。まぁ一日二日抜いたところで死にはしないからそれはいいんだけど、寒いのはきついよなぁ。
適度に時間をつぶしたら交番でも探して保護を願おうかと思っていたのに、見知らぬ場所でははっきりとした交番の位置もわからず、その状態で雨の中動き回る勇気はなかった。これで交番が見つからなかったら確実に風邪フラグが立つところだ。今でも十分立っているが、まぁすぶ濡れでないだけマシとしよう。
ちょっぴり湿っているのは仕方ないこととして。それにしても母も、天気予報ぐらい確認して行動を起こしてほしいものだ。そうしたらまだマシだったものを・・そもそも真冬に放置というのが考え物だが。
もうちょっと贅沢を言うなら、暖かくなってからがよかった。贅沢をいうところが違う、といわれそうだけれども、高望みはしないのが懸命だと思うんだよね。
ざあざあと雨粒さえも見えない暗闇で、この雨で公園に残っていた雪も溶けるだろうか、とぼんやりと考える。雨が雪に変わればまだ動きようもあるのに、変わる気配のないそれにはぁ、とため息を吐いて手を組んだ。
手袋をしても冷えた指先がぐっと互いの手の甲に食い込んで、なんともいえない温度を伝える。
雨が止む様子はなくて、これはこの状態で一晩を明かすフラグなのか、と沈鬱な気持ちになった。・・・横になれるスペースも体を完全に預ける余裕もないこの状態で一晩とか。寝たら死ぬぞってことですねわかりたくありません。
つらつらとくだらないことを考えながら、しかし現状その辺の家にでも突撃かまさない限りは選択など無きに等しく、どうしたものかなぁ、と再度ため息を吐いた。よそ様に突撃するのは気が引ける。しかし、しなければ中々に最悪な現状では一晩を過ごすのはきつい。ある程度齢を重ねた体ならばまだしも、幼子の体で徹夜がちょっときつい、かもしれない。今が何時かもわからないし・・・多分深夜にはなってるかなぁとは思うんだ。家についてた明かりもすげぇ乏しくなったし。
暗いことに恐怖はない。それは慣れ親しんだものであるし、別に暗闇が私に対して牙を剥くことはないからだ。それに明かりに乏しいとはいっても、街灯にはぽつぽつと明かりはついているし、まったくの暗闇であるということはない。まぁ、雨のせいでいつもよりかは確かに暗いのだけれど。
「雨、かぁ・・・」
しとしと、ざあざあ。滑り台を叩く雨音や、重なるように絶え間なく聞こえる雨音に目を閉じる。うっかり寝てしまいそうだが、この不安定な体勢で本気で寝ることはないだろうから、少し休む気持ちで、雨音に耳を傾けた。
静かとは程遠い、雑音に溢れた世界。じんわりと斜めに降った雨が服を湿らせながら、正直今の状況では鬱陶しいことこの上ない雨だけれど、しかし先生は好きだったんだよなぁ、と思う。
別に濡れるのが好きだとか、そういうことではないと思う。雨の中動き回りたいとか、そういう思考ではなかったと思う。雨の何が好きだったのか、今でさえもわからないけれど、あるいはこの雑音が心地よかったのかもしれない、と思う。静寂によく似た、しかし五月蠅いほど聞こえる雨粒が地面にたたきつけられるこの音。
包み込むように世界を覆うそれらを、あの人は好んでいたのかもしれないし、もっと別の理由なのかもしれない。考えたってわかるはずもないことを考えて、閉じていた目をゆっくりと開ける。
映る世界は相変わらず暗闇で、時折遠くに照らされた糸を引くような雨の軌跡が見える。たったそれだけの寂しい世界で、唇を震わせた。
「・・・そして ぼうやは ねむりについた」
所々外れる音程は仕方ない。あまり細かく覚えていないし、そんなにたくさん聞いたわけではないからだ。
ただ時折、アレンが歌うのを聞いたことがあるぐらい。アレンのきれいな歌声が、寂しそうに紡ぐその子守歌を、とつとつとかすれるように紡いでいく。
そして ぼうやは ねむりについた
いきづく はいのなかの ほのお
ひとつ ふたつと
うかぶふくらみ いとしいよこがお
だいちにたるる いくせんの――――
「家に帰れって、言っただろうが」
「・・・っ」
不意に聞こえてきた飽きれたような声音に、びくりと肩を揺らして歌を止める。ひくついた喉で視線を巡らせれば、今日、一度だけみた黒いコートがまた視界に入って、手袋の下で拳を握った。
「お兄さん・・・?」
「ったく。迷子なら迷子って素直に言え。こんな夜中になるまでこんなところにいるとか・・・どんな意地っ張りだよ」
そういいながら、もうサングラスをする気はなかったのか、見えた素顔は眉間に皺を寄せたイケメンで、やっぱりまだ若かった、とどこか的外れなことを思う。いや、しかし、どうして彼が再び私の前に現れたのか。
あれっきり、もう見えるはずもないと思っていた、というかあれ以降頭の中にすらなかった存在に意表を突かれて目を丸くすると、お兄さんは切れ長の目で軽く私を睨んできた。いや、本人に睨んだつもりはないのかもしれないが、目つきがあまりよろしいとは言えないので、多少、迫力があるのは否めない。
反射的に肩をびくつかせた私に、お兄さんはあー、と低い声を出して頭を掻き毟り、少しだけ眉を下げると滑り台の下に背中を丸めて頭をいれ、ほら、と手を差し伸べてきた。黒い皮の手袋に包まれた大きな手が、目の前に差し出される。それが、あのときと重なって、どくん、と心臓がざわめいた。
「ぁ・・・」
「送ってやるから、こっちにこい。いつまでもんなとこにいたら風邪引くぞ」
「・・で、も、」
「まだ母ちゃん待ってるなんていうのか?もう十二時も過ぎるぞ。意地っ張りもそこまでにしとけ」
聞き分けのない子供に諭すように。優しい声音で、ほら、と再度主張するように手を伸ばされて、その大きな手を見つめて、持ち上がった手が、だけど、躊躇った。
なぜ躊躇ったのかはわからない。その人が見知らぬ人であったからかもしれないし、単純に他人に迷惑をかけることに気が引けたからかもしれない。あるいは、その手が、私の望む人のそれではなかったからかも、しれない。自分の中に明確な理由は存在せず、けれどとるのに躊躇している私に、お兄さんはため息を吐いて、出した手を引っ込めた。あ、と思わず声を出せば、代わりにポケットを探ったお兄さんは何かを取り出し、それを私に差し出す。きょとんとして首を傾げれば、お兄さんはこれでももっとけ、といって私にそれを渡した。
反射的に受け取ったそれは、黒い携帯電話で、ますます意味がわからなくて首を傾げる。・・・なぜに携帯を手渡す。あぁ、あれか。家に連絡しろとかそんな?いやでも、かけたところで繋がらんしな。
「あの・・・?」
「それをお前に預けておく。俺の個人情報とか色々入ってっから、何かあったらそれもって交番なりなんなり行けばいい。だから、ちょっとの間俺を信じてくれねぇか?」
「・・・・え」
そういって、少しだけ困ったように眉を八の字にしたお兄さんに、私は言葉をなくして携帯とお兄さんを見比べる。・・・え?
「あーっと、そうだな。名乗ってもなかったな。俺は日向龍也だ。嬢ちゃんは?」
「中村、透子、です」
「そうか、透子。俺を信じてくれるか?」
信じるもなにも、別に不審者だとか、変質者だとか、誘拐犯だとか、そういうことを考えていたわけではなくて、というかほぼ何も考えてなくて、ただどうしたらいいのかなって思っていただけで。
別に、お兄さんに対してどうこうっていうつもりはなかったのに、お兄さんは私の躊躇いを「見知らぬ他人についていくのは抵抗がある」と解釈したのだろうか。黒い携帯をぎゅっと握りながら、この人、なんてお人よしなの、と茫然とお兄さんを見つめた。確かに子供を見捨ててはおけないだろうが、だからといって携帯を預けるとか、どんだけ人がいいんだ。普通はこんなことやんないよ。じわじわと押し寄せてくるものにきゅっと唇を引き結んで、ひたすらに私の返事を待つ人に、むしろこれを無碍にすることがこの人に対してしちゃいけないことだよな、と私はお兄さんの差し伸べる手に、そっと自分の手を重ねた。
その瞬間の、安堵したかのように笑ったお兄さんは、正直イケメンすぎてときめくレベルだった。おぉう。久しぶりにイケメンみたせいか、なんか妙に照れるんですけど。